下京区コンプトン

下京区コンプトンに住んでいました。

【オーストラリア移民日誌3】日々の基盤が出来つつある

オーストラリアでの生活もかれこれ5ヶ月が経った。

仕事は相変わらず日系の運輸会社で肉体労働をしている。
8時に始まり16時半ぐらいに終わる仕事を一日7時間半で週5日。
給料日は二週間毎で、だいたい1700ドル前後を得る(日本円で約15万円)
この国の給与水準としては安い部類だが、困るほどでもない。

妻が日本を離れたがった理由の一つに「仕事量に対して給料が低すぎる」というのがあったが、こちらで働いていると全く納得がいく。
確かに物価も高いのは事実だが(特に家賃)、労働時間や環境を考えると、仕事に関してはどちらが圧倒的にオーストラリアの方が良いと思う。

生活費は妻と折半しているので、多少の貯金もしつつ割とゆとりを持って日々を過ごせている。
中古だが車も買い、余暇もサーフィンに挑戦したりと充実してきた。

生活の基盤ができると、次なるステップや目標も見えてくる。

まずは英語力の向上だ。
職場環境が九割日本語なので、使うタイミングが少ないこともあり、相変わらずひどい有様だ。
移民学校に通う予定だったが、コロナで夜間クラスが閉鎖になっているせいでずっと延期していた。
イースター休暇後は仕事も落ち着いてくるので、シフトを減らして勉強に当てる時間を増やす予定だ。

もう一つは現地企業への転職。
現在の仕事はキャリアパスも限られ、体も酷使するのであまり長くいる事は考えていない。
なによりせっかくオーストラリアに移住したのだから、もっと新しい環境で新しいことを始めたい。

今はその2つを目標に日々を過ごしている。
まだまだ何がどうなるかわからないし、一足飛びには進まないが、少しずつでも変化すること意識して日々を過ごしている。

コロナ渦中のオーストラリア結婚ビザ申請〜渡航までの備忘録

コロナの大流行中という特殊な状況下でのオーストラリア渡航について、時々周囲から問い合わせがあるため、備忘録も兼ねて渡航までの道筋を記録しておこうと思います。

 

●2019年12月末

オーストラリアで結婚

 

この頃、コロナが中国で発見されたかされてなかったかぐらい。

こんな状況になるとは全く考えていなかったので、結婚後は一旦僕が帰国した上でオフショア(国外からの結婚ビザ申請)を行い、ビザが下り次第オーストラリアに移住する計画だった。

オフショアを選んだ理由は

オンショア(国内からの申請)に比べてビザの審査期間が短い

②家族の用事などで一旦帰国の必要があった

③日本側の必要書類などが国内からの方が調達しやすい

妻と最大一年近く離れ離れなるリスクはあったが、移住の準備や資金調達にも時間が必要だったため、一旦帰国することになった。

 

●2020年1月

帰国&申請準備

 

帰国すると同時に申請の準備を進めた。

主なタスクは書類集めで、関係の各役所を行ったり来たりした。

書類は主だったところで言うと、

マイナンバーが記載された戸籍謄本→birth certificate+marriage certificate+national identity card

・警察発行の無犯罪証明書(police certificate)

・上記書類の英語翻訳

・2人の関係を証明する個人的なメッセージ、手紙のやりとり、写真など

などなど多岐に渡った。

 

特に戸籍謄本と無犯罪証明書は英訳文章が必要で時間を要するため、年が明けてから早々に取りに行ったのを覚えている。

 

オーストラリア政府側が基本的に全てweb上で手続きを進められるのに対して、日本は対面でないとなかなか発行してくれない書類もあるため、帰国して正解だったと思う。

 

基本的に審査は「結婚が事実に基づくものか(偽装でないか)」を確認するものなので、情報記録をなるべく事実に沿って詳細に書くように努めた。

20ページに及ぶ申請書のなかで「過去10年内の海外渡航記録」という項目があり、休みのたびに海外旅行に行っていたこの10年を呪うことになった(書ききれなくて欄外にはみ出た)

 

●2020年1月最終週

申請&支払い

 

7,300ドル一括。泣いた。

このころ中国がパニック状態に、欧州にも飛び火し不穏な空気が漂い始める。

 

 

●2020年2月

オーストラリア政府指定医療機関での健康診断

 

まさかの3万円超。

泣いた。

クルーズ船や日本国内でも感染者が出て、混乱が大きくなる。

マスクや消毒液が店頭から消えたのもこの頃だった。

 

 

●2020年3月

妻が来日

 

コロナが世界各国で猛威を振るう中、まだ安全地帯だったオーストラリアから妻がやってきた。

混乱が大きくなってはいたが、まだ旅行を楽しむ外国人がいた頃だった。

帰国予定日の前々日にオーストラリアがロックダウンの方針を決定したため、予定を繰り上げて帰国していった。

無料で対応してくださったANA様、Airbnbのオーナー様、十津川の温泉旅館様本当にありがとうございました。

 

●2020年7月末

移民局より追加書類の依頼

 

銀行の共同口座の確認と、申請日から現在までのLINEやメールのやりとりを提出。

この頃には両国は完全に往来できなくなっており、結婚ビザ取得だけがオーストラリア渡航の唯一の手段になっていた。

 

●2020年8月3日

結婚ビザ発給

 

発給まで1年を想定していたので、嬉しい驚きだった。

急ぎ渡航の準備を進める。

 

●2020年8月中旬

飛行機チケット取得

 

キャセイパシフィック航空で11月7日成田発香港経由シドニー行きを予約。

関空からのチケットも売っていたが、問い合わせたところ欠航の可能性が高いと言うことで成田発を選択。

日本のコロナ感染は落ち着きを見せていたが、代わりにオーストラリア側で大流行。

11月7日と少し遠めの日程にしたのは、海外からの渡航者は隔離が義務付けられて費用3000ドルも自己負担だったため、この措置が緩和されるのを期待してだった。

 

 

●2020年10月

渡航延期を打診

 

11月になっても相変わらず隔離などの措置が変わる見込みがなかったため、キャセイパシフィックに渡航を12月頃に延期したいと相談。

しかしこの時すでにオーストラリア政府が新規航空券の取得を制限していたため、次に予約できるのが3月からのチケットになるとのこと。

つまりは日程変更が事実上不可能に。

 

さらにオーストラリアへの外国からの入国が週6,000人に制限されていたため、渡航2〜3日前にチケットがキャンセルされる可能性も示唆される。

急に渡航計画に暗雲が立ち込めたが、もはや選択肢もないので日程は11月7日のままで渡航準備を進める。

 

●2020年11月5日

渡航の可否を確認

 

出国の72時間前を切ったので、キャセイパシフィックに再度渡航の可否を確認。

「確約は出来ないが、ほぼ大丈夫」と言う歯切れの悪い返答をいただく。

 

●2020年11月7日

出国

 

キャセイパシフィック航空のみなさま、ありがとうございます。

 

 

 

今改めて渡航までの道筋を振り返ると、本当に運がよかったとしか言いようがない道筋だった。

 

事実こちらに来てから、家族が何度も渡航に失敗した話や入国出来ない話を何度か聞いた。

 

 

大した情報ではないかもしれないが、これが誰かの役に立てばと思っている。

 

【オーストラリア移民日誌2】あらゆる人生のツケの請求を感じている

ホテル隔離から釈放されて早二週間が経った。
経過は順調と言っても良いかもしれない。
嫁の助力は多分にあったものの、物件の内覧から契約、家具購入、携帯契約、学校登録、免許の切り替え、健康保険申請、銀行の登録変更、その他事務手続きを全て終え、非常勤だが仕事も手に入れた。

しかし同時に悩みも増えた。
まずとにかく英語が聞き取れない。書けない。
はっきり言って元々僕の英語力はかなり低いし、それに対する努力も怠ってきた。
それでも特段困ることもなかったし、仕事もできていた。
しかし、もうそうはいかなくなった。

さらに、今までのホテルのキャリアが通用しなくなった。
何故なら仕事がないからだ。
コロナで観光需要が冷え込んでいるので、求人が出ないのだ。

日本でなんとなく仕事を得るのにハッタリで使ってきたアドバンテージをがっつりもがれた今、僕はようやく自身のキャリアについて真剣に考えるようになった。

このままでも暮らせるが、決して良い暮らしはできない。
どうにかして何か金になる技能を身に着けなければ、いずれドン詰まることになる…。

社会の最低層の移民という立場になった今、かつてない強烈な危機感を覚えている。

【オーストラリア移民日誌】住所がないとどうにもならない

ホテル隔離が終わってシャバに出てきた。
今は妻のボンダイに住む友人の民泊に二人で身を寄せている。
週350ドルと高額だが、ビーチからバスで5分という立地の良さなので仕方あるまい。

妻はほとんどテレワークなので、家にいることが多い。
僕は移住に必要な行政手続きで出たり入ったりしながらも、食事や住まいは一緒なので、今まで成し得なかった新婚生活を謳歌している。

そんな借りぐらしの生活で痛感したのが、住所が定まらないと何一つ事が進まないということだ。


ホテルから出て翌日には全ての行政手続きを終える予定だったが、

健康保険→保険証を送る固定の住所
運転免許→運転免許を書き換えるための書類を送る固定の住所
銀行口座の変更→書類を送る固定の住所
大使館への届け出→住所が決まってないので無理
仕事探し→車がないので通勤圏が限られ、住まいが決まらないと探しようがない

とにかく一切、住所がないことには始まらない。

衣食住とはよく言ったもので、人間はこの3要素が固まって初めて文明らしい生活が送れるようになるし、行政もそれをベースに物事を進められるようになっている。

以前、ホームレス支援などをしている人が「一度住所を失うと、行政や福祉へのアクセスが難しくなる」と言っていたのは、まさにこのような状況を言っていたのだと実感した。

とは言え幸いなことに、まだしばらくは生き延びられる資金もあるし、何より信頼できる妻もいる。
(そして妻には職がある)

まだまだ落ち着かない感じは否めないが、楽しみながら二人の生活圏を構築できればと思っている。

自分で自分の動画を撮って編集した感想

隔離生活で意外と苦しいことは、自我の表明をする場所が無いことだ。

人は大なり小なり、自己顕示欲を持っていると思う。

自分の存在の証明や意思の表明を無意識に必要としている。

通常それは日常生活や仕事、娯楽などで解消されるが、隔離生活にそれは無い。

 

僕は出国前から「隔離されたらその生活をyoutube配信する」と言う旨を周囲に表明していた。

これは動画配信への興味もあったが、「二週間ほぼ社会と切り離されて自己を表現する機会がなくなる」と言うことを恐れていたからだ。

結果的に見るとこの試みは正解だったと思う。

自分で自分を撮影し、それを世界中に向けて晒すと言う文字にするだけでも恥ずかしい行為は、確かに僕の精神衛生に大きく貢献してくれたし、自己顕示欲を満たしてくれた。

これがなければ隔離生活はもっと精神的に追い詰められるものになっていただろう。

一つの部屋に閉じ込められ続けるのは、思ったよりも辛いことだ。

 

この約10日で3本の動画をYoutubeにアップしたが、その過程で出た感想を羅列する。

これも自己顕示欲を満たす表現行為の一つだ。

 

 

①Youtuberすごい

 動画の撮影も編集も、実際やると本当にめんどくさい。

 まず全体の構成を考えて、それに必要な素材を撮影する。NGが当然出てくるので、想像以上に時間がかかる上に神経を使う。

 撮影が終わったらPCに落とし込んで編集が始まる。撮影に比べて時間もかかれば地味で、切って貼って再生してを延々繰り返さなければならない。

 字幕だって手打ちだし、音楽や効果音も選ばなくてはいけない。

 10分の動画を作るのに、少なくともその10倍以上の時間を費やす必要がある

 それが終わってやっとWebにアップできるのだが、本業の人たちはこの後も長い。

 動画の詳細アナリスティクを見ながら、次回の展開や構成を考えて行かなければいけない。それが即収入に影響するのだから、真剣さもひとしおだろう。

 それに365日取組み続けるのだから、何事もプロというのはすごい。

 簡単には換算できないが、おそらく普通のサラリーマンよりも仕事に時間は割いていると思う。

 

②自己嫌悪がすごい

 自分の顔が延々と出てくる動画の編集をしている時、どんな気持ちがするか。

 ひたすら自分が嫌になる。それに尽きる。

 動画というのは写真以上に自分の顔、姿勢、体格をはっきりと表現する。

 動く自分と正面から向き合うのは、かなり勇気のいる行為だ。

 僕の顔はこんなに凸凹しているのか、こんなに姿勢が悪いのか、こんなに顔が歪んでいるのか。向き合いたく無い現実をまざまざと見せつけられて苦しくなる。

 おまけに画面の中の不細工はしょっちゅう言葉を噛むし、詰まる。声も平面的だし滑舌が悪くて聞き取りづらい。

 そんな自分の映像を、切ったり貼ったりし続ける。はっきり言って胃がムカついてくる。

 なんかこんな奴といつも普通に喋ってくれるみなさま、本当にありがとうございます。

 

③勇気が要る

 最初に動画を公開するときは本当に勇気が必要だった。

 恥部を晒すような気恥ずかしさがあったし、いまだに恥ずかしい。多分コメントで変なこと書かれたら即閉鎖してしまうだろう。

 それでも何となく続けているのは、やはり自己顕示欲を満たせているからだと思う。

 ほぼ身内だけだけど、やっぱり人に観てもらえて、ちょっとでも反応がもらえるのは嬉しいことだ。

 

いつまで続くかわからないけど、この生活から脱出できるまでは、少なくとも続けたいなと思う。

沖縄に関するとりとめも無い話

オーストラリアでホテル隔離されて十日が経つ。

気が滅入るので沖縄の話でもしよう。
もう10年以上前の話もあるので、現存しないものも出てくる。
 
 
●農連市場と食堂
 
沖縄に初めて行った時は、那覇牧志公設市場あたりにあるゲストハウスにだらだら居ついていた。
当時はまだ沖縄ブーム後期で、ゲストハウスはずいぶん繁盛していたように思う。
客層は主に学生、社会人、フリーター、よくわからない曖昧な人の4種類で、それにスタッフも混じって毎日ワンチャカやっていた。
ゲストハウスの屋上にはスタッフが開けている掘立小屋のバーがあった。
そこはある種の社交場のようになっていて、遊び好きな客が集ってくるので僕も毎晩通ったものだ。
夜の2時ぐらいになると閉店で、まだ喋り足りない時は自然と外に出ることになる。
バーで知り合った連中と連れ立って暗闇のアーケードを少し歩くと、蛍光灯の薄暗い明かりが見えてくる。
そこは農連市場という野菜などの卸市場で、いつも早朝から開いていた。
サビだらけのトタン屋根の下、年季の入り切った叩きのコンクリートにゴザを敷いて座るおばあちゃんたち。
彼女らが売る野菜は、ギラギラした生命力に満ちているように見えた。
僕らの目的地は市場を抜けたところにある24時間やっている食堂だった。
終戦直後から建て直していないであろうバラックに外向きでカウンターが着いていて、座ると背中は少し道路にはみ出す有様。
そこでワンコインの沖縄そばでシメてその日を終わるのがお決まりのルーチンだった。
 
農連市場はこの数年後に解体され、食堂は建物を全面改装してこざっぱりとなった。
ゲストハウスはまだあるらしいが、屋上バーはなくなったと人づてに聞いた。
 
 
本島で一番好きなのは今帰仁だ。
海が綺麗でのんびり過ごせる自然ビーチは、僕の基準ではこのあたりにしか無い。
撮影補助の仕事の時によく使っていたビーチもこの付近だった。
撮影補助の仕事はコネで入ったのだが、そもそもの動機が「沖縄に住みたいから」といういささかズレたものだったので、早々にやる気をなくしていた。
白砂のビーチでコマネズミのように使い走りをしながら「さっさと仕事終わらせて泳ぎてえ」と思っていたものだ。
そんな勤務姿勢だったので、いつでも自由に泳げる身になるまでそう時間はかからなかった。
仕事を辞めた直後、バイクを走らせてそのビーチに行き、心行くまで泳いだ。
何も敷かずに寝転がって、そのまま昼寝をした。
 
●パイプライン通り
 
那覇から宜野湾の大山までを貫くこの通りは、元々戦後に米軍が航空燃料用のパイプラインを引いたことが起源とするらしい。
道とすることを想定していなかったためか、かなり無茶なアップダウンが多数存在している。
並行する58号線や330号線に比べると小さな道なので、沿道の風景もかなり地元めいたところがあった。
古い食堂や弁当屋、怪しいゲーム喫茶、墓、中古車屋、コンビニ、農地や空き地。
住居も赤瓦の民家があれば米軍ハウス風の打ちっぱなしもあるし、高層マンションの横にバラックが建っていたりしてとにかく混沌としていた。
沖縄で時間があると、用事が無くてもこの通りを通ったりする。
相変わらずだったり、そうで無かったりするのだが、特に雰囲気が変わらない不思議な道なのだ。
 

風呂の思い出

朝早くに高知市を出たにも関わらず、愛媛八幡浜についた頃にはもう日も傾き始めていた。
大型バイクならもう少し早く着いただろうが、峠を越えるのもやっとのポンコツ原付では、むしろよく走れたほうだなと思った。

その日僕は九州別府を目指していた。
大分大に通う友人から飲み会の誘いを受けたことで、四国を無茶な行程で走り抜けることを決意し、長い長い道のりをあまり休憩もせずに走ってきたのだった。

ここ八幡浜からは、大分の臼杵までフェリーが出ている。臼杵から目的地までは遅くても1時間ほどでたどり着ける距離だった。
佐多岬まで行けば目的地にに近い場所まで行けるフェリーもあったが、朝からの無理のし通しでそれ以上原付に乗る気にならなかった。

間の悪いことに、到着する直前に船が出てしまったようで、次の船は2時間後とのことだった。
フェリー乗り場には、古びた待合椅子と自販機の他には何もない。
とりあえず切符を買って外に出た。

港町は、いかにも四国の果ての過疎地といった風情だった。
潮風にくたびれた家々に八月の強烈な西日が差し込み、動くものは腰の曲がった老人と海猫、あとは波が防波堤に当たるちゃぷちゃぷという音だけが海側から微かに聞こえていた。

自販機でジュースを買って一服したのちに「風呂に行こう」と思い当たったのは、町の入り口あたりでそんな建物を見た気がしたからだと思う。
港から町の方にバイクを走らせると、やはりそれらしき煙突が見えてきた。煙も出ている。

港で見た家々に負けず劣らず古びた建物だったが、妙に立派に見えたのは建物全体が薄いウグイス色で塗られていたからだろう。
いい風格だった。町が経験した色々を一身で受け入れてきたという風格があって、この建物好きだなと思った。

設備はなんということのないローカル銭湯だが、風呂場は屋根が高くて開放的だった。
高窓から入ってくる西日が天井や壁で乱反射して、風呂場全体をキラキラと照らしているのがなんとも美しい。
その風呂場の中心に真ん丸の浴槽があり、緑色の湯が湯気を吐き出している。

シャワーで体を流し、ざぶりと浸かる。
真夏の直射日光と長時間の運転で強張った身体が段々にほぐれていくのを感じた。
種田山頭火の句で「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたし」というのがあったけど、あれはまさにこんな気分だったんじゃないだろうか。
そういえばあの句は同じ愛媛で読まれた句だった気がする、確か道後温泉だったけど。

そんなことを考えていると、漁師風の老人が話しかけてくる。
どこから来てどこへ行くのか、通りいっぺんのことを話すと老人は「そうか、そうか、若いな」と言って笑ってくれる。

長湯でのぼせた身体を脱衣所でクールダウンしていると、老人がフルーツ牛乳を買ってくれた。
にいちゃん頑張りやと真っ黒に日焼けした顔で微笑んで、去っていった。
からっとしたいい笑顔だった。
もらったフルーツ牛乳は、港に戻って海を眺めながら飲んだ。

フェリーの座敷で横になりながら、八幡浜のことを考えた。
多分もうここにくることはないだろうし、あの町の様子を見ると、きっとあの銭湯もあと数年ももたないだろう。
ただ、たったそれだけの思い出なのに、大変に素敵な町だった。そう思った。



もう10年以上前のそんな思い出が蘇って来たのは、前日カフェで手にとった地方銭湯の特集だった。
なんと、件の八幡浜の銭湯がまだ営業しているらしい。
正確には一度閉めたらしいが、改修を入れて再オープンしたそうだ。
しかも2階でゲストハウスまでやっているらしい。

もう日本を離れるまでそう日がないが、なんとか行けないものか。
最近ずっとそんなことを考えている。

「大正湯」
〒796-0088 愛媛県八幡浜市1132−13
https://www.facebook.com/taisyoyu/