下京区コンプトン

下京区コンプトンに住んでいました。

沖縄に関するとりとめも無い話

オーストラリアでホテル隔離されて十日が経つ。

気が滅入るので沖縄の話でもしよう。
もう10年以上前の話もあるので、現存しないものも出てくる。
 
 
●農連市場と食堂
 
沖縄に初めて行った時は、那覇牧志公設市場あたりにあるゲストハウスにだらだら居ついていた。
当時はまだ沖縄ブーム後期で、ゲストハウスはずいぶん繁盛していたように思う。
客層は主に学生、社会人、フリーター、よくわからない曖昧な人の4種類で、それにスタッフも混じって毎日ワンチャカやっていた。
ゲストハウスの屋上にはスタッフが開けている掘立小屋のバーがあった。
そこはある種の社交場のようになっていて、遊び好きな客が集ってくるので僕も毎晩通ったものだ。
夜の2時ぐらいになると閉店で、まだ喋り足りない時は自然と外に出ることになる。
バーで知り合った連中と連れ立って暗闇のアーケードを少し歩くと、蛍光灯の薄暗い明かりが見えてくる。
そこは農連市場という野菜などの卸市場で、いつも早朝から開いていた。
サビだらけのトタン屋根の下、年季の入り切った叩きのコンクリートにゴザを敷いて座るおばあちゃんたち。
彼女らが売る野菜は、ギラギラした生命力に満ちているように見えた。
僕らの目的地は市場を抜けたところにある24時間やっている食堂だった。
終戦直後から建て直していないであろうバラックに外向きでカウンターが着いていて、座ると背中は少し道路にはみ出す有様。
そこでワンコインの沖縄そばでシメてその日を終わるのがお決まりのルーチンだった。
 
農連市場はこの数年後に解体され、食堂は建物を全面改装してこざっぱりとなった。
ゲストハウスはまだあるらしいが、屋上バーはなくなったと人づてに聞いた。
 
 
本島で一番好きなのは今帰仁だ。
海が綺麗でのんびり過ごせる自然ビーチは、僕の基準ではこのあたりにしか無い。
撮影補助の仕事の時によく使っていたビーチもこの付近だった。
撮影補助の仕事はコネで入ったのだが、そもそもの動機が「沖縄に住みたいから」といういささかズレたものだったので、早々にやる気をなくしていた。
白砂のビーチでコマネズミのように使い走りをしながら「さっさと仕事終わらせて泳ぎてえ」と思っていたものだ。
そんな勤務姿勢だったので、いつでも自由に泳げる身になるまでそう時間はかからなかった。
仕事を辞めた直後、バイクを走らせてそのビーチに行き、心行くまで泳いだ。
何も敷かずに寝転がって、そのまま昼寝をした。
 
●パイプライン通り
 
那覇から宜野湾の大山までを貫くこの通りは、元々戦後に米軍が航空燃料用のパイプラインを引いたことが起源とするらしい。
道とすることを想定していなかったためか、かなり無茶なアップダウンが多数存在している。
並行する58号線や330号線に比べると小さな道なので、沿道の風景もかなり地元めいたところがあった。
古い食堂や弁当屋、怪しいゲーム喫茶、墓、中古車屋、コンビニ、農地や空き地。
住居も赤瓦の民家があれば米軍ハウス風の打ちっぱなしもあるし、高層マンションの横にバラックが建っていたりしてとにかく混沌としていた。
沖縄で時間があると、用事が無くてもこの通りを通ったりする。
相変わらずだったり、そうで無かったりするのだが、特に雰囲気が変わらない不思議な道なのだ。