下京区コンプトン

下京区コンプトンに住んでいました。

BBQ

久々にBBQすなるものをした。

普段下京区の場末の飲み屋ばかりで酒をあおっているので、つかの間のリア充になった気分である。

 

野外に出て、集団で炭火を起こして肉を焼く。

非常に原始的かつ単純な作業だが、それだけで普段の何万倍も肉や酒が美味く感じる。

これほどまでにコスパに長けた娯楽はないのではないかと思う。

 

一人暮らしをしていると、まとめ買いした肉を一旦冷凍するので、肉を食べる前に解凍という作業が付いて回る。

自然解凍は時間がかかるし、電子レンジは加減が難しくいので、だんだんと肉を食べるのが億劫に感じてしまうのだ。

 

そんな怠惰のせいで徐々にベジタリアン化しつつある。

ここ一週間はほとんど動物性タンパク質を摂取していなかったので、昨日の肉は大変に美味だった。

昨日妙によく眠れたのはそのせいかも知れない。

 

でもまた日常に戻ると肉食わなくなるので、ちょこちょこBBQを仕掛けていこうと思う。

だって夏だし。

 

ハンドスピナー

最近、街中でをくるくるやってる人を見る。

お客さんも、よくくるくるやっている。

グーグルで調べると、どうやらハンドスピナーというらしい。

 

率直に言って謎だ。

何なのだあれは。

聞くところによると、あれをくるくるすることによって特にメリットはないらしい。

 

ケータイのデータ容量が減るとか、蚊が寄ってこないとか、UFOを呼べるとか、特にそういうのはないらしい。

 

何故人はあれをくるくるするために、わざわざ手に入れてくるくるするのか。

流行りなのか、はたまた何か圧力でもかかっているのか。

 

一つ言えることは、あれをくるくるできる余裕があるうちは平和だということだ。

いつまでもあれをくるくるできるぐらいの余裕のある世の中は、割と豊かで良いと思う。

 

ロボット

ロボットの進出が著しいらしい。

あと数十年の間にほとんどの仕事の働き手はロボットに成り替わるらしい。

喜ばしいことだ。人類総ニート時代の到来である。

好きなだけ野宿とSUPに打ち込める。

 

先日、初めてロボットに接客を受けた。

ソフトバンクが作ったペッパー君である。

だが誤作動なのか元々ポンコツなのかはわからないが、ほとんど受け答えはできなかった。

 

後半はずっと「リアクションって言ってください、リアクション〜」と壊れたファービーの如く繰り返していた。

テニサーの大学生並の芸のなさである。

 

正面に立っているとリアクション攻めに遭うことがわかったので、向かって左に避けてみることにした。

すると、奴はこちらの動向を認識しているらしく、こちらに顔を向けてきた。

しかもやや顎をあげ、こちらを見上げる形だ。

ロボットにメンチを切られる21世紀的体験である。

 

ペッパー君の目は白眼がぼんやり光り、黒目は真っ黒に塗られている。

この目が実に不吉なのだ、全く感情を感じさせない。

映画ジョーズロバート・ショウ扮する漁師クイントの「サメの目には感情が全くない、人形のような目をしてやがる」というセリフがあるが、まさにそれである。

全く感情を感じさせない目にこっちをじっと見つめられるのは、大変に不吉な感じがするのだ。

まだまだ接客は人間の分野だなと思った。

 

しかし、あの目は本当に不吉なので軍事転用した方が良いのではないかと思う。

手にライフル銃を持ち、足がセグウェイ状に改造されたペッパー君が、硝煙の中から大軍をなしてこちらに向かってくるのである。

あの目でしっかりとこちらを捉えながら。

なかなかのディストピア感ではなかろうか。

 

バール

先日、某古民家をゲストハウスにするための改装作業を手伝った。

まだ着手段階なので、主な作業は解体である。

 

改装作業はまさに破壊と創造なのだが、僕は創造と同じぐらい破壊活動も好きである。

現代日本で派手に破壊して良いものなどそうそうないので、破壊はなかなか昂ぶるものがある。

 

破壊には主にバールを使うのだが、バールは本当に人類の英知だと思う。

梃子の原理を最大限に活かす長いリーチ、僅かな隙間をも捉える刃先、釘抜きにも突き刺しにも使える鎌首状の持ち手。

破壊活動の基本を一手に納めた、まさにリーサルウェポンである。

 

この日はダメになった床板を剥がしまくる作業だった。

床板はかなり頑丈に出来ており、闇雲に壊そうとしてもなかなか上手くいかない。

突き刺せそうな僅かな隙間を見つけ、刃先を入れ、支点を固定し、一気に持ち上げる。

いかに早く、強く、効果的に力を使い、床板を剥ぎ取るか。

 

破壊活動はただ力任せではなく、創造と同じぐらいクリエイティブな活動なのである。

 

破壊した跡は気持ちの良いぐらいのがらんどうが残る。

がらんどうがこれからどんなことになっていくのか、僕は楽しみで仕方がない。

 

破壊の後の創造も、やっぱり面白いですよね。

髪が固い

先日、酔っぱらった友人に「うるせえこのいがぐりが」と言われて少し傷ついているが、実際自分の髪はとても固い。

おまけに量も多い。

歴代の美容師さんにも言われ続けていることで、なかなかないぐらいの固さらしい。

 

その固さゆえに放っておくと横に膨張する傾向があり、かなり短く刈り込んでも2ヶ月すると五右衛門風になってくるので、一ヶ月半に一度は散髪を心掛けている。

 

以前に美容師見習いだった友人にカットモデルを依頼されたことがある。

世の中意外と短髪が少ないらしく、なかなか練習ができないらしい。

マメな散髪は金がかかるので、喜んでOKした。

 

カットモデルはいわば実戦訓練なので、友人の先輩立会いの下、時間を計って行われた。

確か45分とかだったと思う。

 

友人と会うのも久しぶりだったので、和気あいあいと会話しながらのカットが始まった。

しばらくお互いの近況や共通の友人の話題で盛り上がっていたが、20分を超えたあたりから雲行きが怪しくなってきた。

切っても切っても髪型が整わないのである。

 

感覚的に分かるのだが、量の多い髪はある程度のところですいておかないと髪の密度に邪魔されて髪型が整わなくなるのである。

友人のカットは明らかにすきの工程が少なかった。

 

徐々に迫る時間、焦る友人。

気づけばほぼ会話はなくなり、小声で「減らへん…」とか「なんでやろ…」とかつぶやいているのが聞こえる。

すまない友人、僕の髪質のせいで…。

 

結局、いがぐり状態でタイムアップ。

先輩が教えながら髪を整える次第となりました。

 

手に刺さり、シザーの刃が落ちるレベルの髪を試してみたい美容師さん、オファーお待ちしております。

 

痕跡

人間は、一日に約100本ほど頭髪が自然に抜けるという。

つまり、僕たちは1日に100回ほど自分の痕跡を落としながら、

日々の生活を送っているということになる。

 

下京区コンプトンにも、時折人が遊びに来ることがある。
たいていはいわゆる「宅飲み」というやつだ。

 

そういった宴があった後に部屋を掃除していると、
必ず自分の物ではない髪の毛が落ちているのが見つかる。

自分は黒髪で短髪なので、長かったり色が入っていると他人の髪というのがはっきりとわかるのである。
とりわけ女性の髪は大変に目立つ。

 

不思議なことに、入念に掃除をしても次の掃除のときに結構な確率で他人の髪が見つかる。
その間、自分以外に誰も部屋に入っていなくても、である。
おそらく前回の取り残しなのだろうが、6畳ほどの狭い住まいを割と時間をかけて掃除している。
それにも関わらず、まだ隠れていた他人の痕跡が出てくることに驚かされる。
これほどまでに人の痕跡がその場に残り続けているのかと。

 


このことに気づいてから、

部屋に落ちている髪の毛から浮気が発覚するという話に納得がいくようになった。
髪の毛から確証を得ることはできないが、非常に有力な物的証拠だ。
原始的だが、大変に効果的である。

 

パートナーの浮気を疑っている女性の皆さんは、

とりあえずパートナーの部屋にコロコロをかけてみることをおすすめする。
小一時間で物証か安心を得られるならパフォーマンスは抜群である。

 

パートナーがいるにも関わらず下半身が収まらない男性の皆さんは、

パートナーより早く、かつ入念に自分のテリトリーをコロコロがけするか、

パートナーと同じ髪質の女性と浮気すると良いと思います。

 

腕毛

女性の腕をつい見てしまうクセがある。

フェチとかではなく、なんとなく視線の散る先に腕があるのである。

これは仕事中でも出るクセだ。

 

仕事柄、様々な年齢層と人種の女性の腕を見るが、総じて言えるのは日本人の女性は非常によく腕毛の処理をされているということである。

日本人、しかも若い女性で腕毛が見える人はほぼ皆無だろう。

 

しかし、外国人は違う。

むしろ腕毛の処理をしているのが少数派だろう。

特にラテン系の女性は無処理率が高い気がする。

ラテン系の女性は毛色が黒い人が多いので、とりわけ腕毛がよく目立つ。

なんなら自分よりすごい人も結構いる。

ものすごい美人の女性がなかなかの腕毛具合で、ohジーザスという気持ちになるのもたびたびである。

 

これは聞いた話だが、外国人女性は腕足の毛の処理よりも下の毛の処理に力を入れるらしい。

なので外国人男性が日本人女性とコトを致す際、腕足の毛の処理の完璧さに対して、あまりにありのままの下の毛に驚くということだ。

 

同じような話で、ラオスの女性は楊枝で歯を穿る時は手で覆い隠すが、ハナクソをほじる指は隠さない、と言っていた友人がいた。

 

文化や風土、人種が変われば美の重点を置く位置も変わってくるのである。

今僕たちが意識している美は、他の場所ではどうでも良いことなのかもしれない。