彫り物
彫り物が好きだ。
入墨のことである。
別に自分で入れたり、わざわざ見たりはしないが、見事な彫り物はやはり見事であり、職人の技や粋を感じる。
特に和彫りは殊の外繊細でカラフルであり、情緒感に富んでいる。
彫り物を見るのは主に銭湯である。
なぜか彫り物のある人々は銭湯が好きだ。
京都市内の男風呂ならほぼどこでも何らかの彫り物を見ることができるだろう。
下京区コンプトン界隈は治安がよろしくないので、比例して銭湯での彫り物目撃率が上がっている。
先日、お休みの日に銭湯に行くといつも以上に彫り物率が高かった。
何か会合でもあったのだろう。
特に害がある訳でもないので、気にせず湯浴みを楽しんでいた。
やはり大人数が彫り物を入れてると壮観なものがあったが、ひときわ目を引いたのは肩からアキレス腱あたりまで背面いっぱいに彫られた酒呑童子だった。
ポーズをとった酒呑童子がダイナミックに描かれ、それはそれは見事だった。
今日は良いものを見たな、と思いながら風呂から上がると、一足先に上がっていたであろう酒呑童子氏が脱衣所にいた。
まだ上半身は裸で、酒呑童子がこちらを睨んでいたが、何か様子がおかしかった。
酒呑童子の顎から胸にかけて何かが貼られていてが見えないのである。
貼られているものが肌色だったので一瞬何かわからなかったが、それはベージュの湿布だった。
多分、身体を何かで痛めているのであろう。
腰のやや上に、巨大な湿布が二枚も貼ってあった。
酒呑童子はその下敷きになっていたのである。
おまけに肩にも小さいのを貼っていたので、酒呑童子の両腕が拘束される形になったいた。
勇ましい酒呑童子が、一気に滑稽で哀愁あるものに変わった。
酒呑童子の目が僕に語りかけるようだった。
「どうしてこうなった」と。
その刹那、服を着られて酒呑童子は見えなくなった。
誰も老いには勝てない。
彫り物の最も難しいところは、歳をとってから彫り物をカッコ良く見せ続ける努力なのかも知れない。
snow
昨年から、スマホアプリのsnowが爆発的に流行している。
写真やムービーで人の顔にエフェクトをかけるアプリである。
SNSなんかで色んな人がやっているのを見ていたが、僕は一度もやったことがなかった。
だいたい全然面白くなかったからである。
あと、自分の顔にエフェクトをかけることに何ともいえない気色悪さも感じていた。
しかし昨晩、飲み屋で隣にいた人と盛り上がり、snowを撮ろうという手筈になった。
慣れた手つきでアプリを立ち上げ、自撮りモードに。
どうやら選んだエフェクトが自撮りに乗っかる形らしい。
しかし、いつまでたってもシャッターが押される事はなかった。
僕の顔がどうやっても認識されないのだ。
暗さのせいか、日焼けのせいか、はたまた僕の顔は顔ではない何かなのか。
原因は全くわからないが、とにかく僕だけエフェクトがかからない。
顔の入れ替えも出来ない。
こんなことは今までにないとのことだった。
こうして僕はsnowを体験できずに終わった。
今、あれだけ嫌っていたsnowをやってみたくてしょうがない。
古墳
職場の後輩が家の近くで古墳を発見したと言う話をしていた。
確かに京都はさすが古都というだけあり、各地に古墳が点在している歴史の宝庫である。
僕たちの地元には裏山があり、やはり裏山の中にも古墳が多数あった。
古墳とは名のつくものの、ただの崩れかけた土盛りに近いものがあり、大して管理もされていなかったのが事実である。
小学生だった頃のある日、裏山で遊んでいる時に古墳の中に入ってみようという話になった。
そのエリアの古墳は直径で10m程度のものが数個点在しており、入り口も特にふさがれることなく開いていた。
子供の遊びにはもってこいである。
ジャンケンに負けて入った古墳の中は異様だった。
妙な家財道具は置いてあるし、焚き火の跡もある。
どう見ても人が生活している、もしくはしていた感じで気味が悪かった。
誰がそこで生活をしているかはすぐにわかった。
ある日小学校の陸上部の練習で山に入った時、古墳に程近いところで、全裸のおっさんが川で体を洗っていたのだ。
全裸で。
みんなが悲鳴をあげる中、僕及び友達数人は確信していた。
あいつは古墳に住んでいる奴に違いない。
古墳に住む、野生のホームレスなのだ、と。
一応言っておくが21世紀初頭の話である。
特に危害を加えるでなく野生のおっさんは去っていった。
陸上部の練習も夏の終わりまでそこで行われた。
今なら確実に案件になっているが、その頃は全然騒ぎにもならずに終わっていた。
今思えば、あの頃はそういう曖昧さが許容されていた気がする。
積極的に介入はされないにしても、放っておかれるぐらいの自由はあったのだ。
例え住所が古墳の中であってもである。
そんな曖昧さが今日には欠けていると思うし、当時いた曖昧な暮らしの人たちは一体どうしているのだろう、と気になることがたまにある。
建て前
世の中は本音と建て前が溢れている。
建て前とは大変に便利なものである。
とりあえず建てておけば、どんな詭弁でも理由になりうるのだ。
前日東急ハンズのクッキングコーナーを見ていると、ワイン酵母なるものが売っていた。
近年流行りの自家醸造キットすなるものである。
コンドームの袋ぐらいの大きさに粉末のワイン酵母が入ったもので、約24Lのワインを醸せるらしい。
たいしたものである。
しかし、注意書きに妙な一文がくっついていた。
※日本では無免許のアルコール1%以上の酒類製造は認められておりません
とのことだ。
激しい自己矛盾である。
ワイン酵母の存在意義が問われる事案だ。
このメッセージを読み解くと、建て前は「ワインを24L醸せるけど、アルコール飲料作ったらあかんで」
となる。
おそらく本音では「うちでは責任持たねーけど勝手にしやがれ」ということかと思う。
はっきり言って詭弁であるが、注意を喚起して禁止される理由に該当しなければお咎めはされないのだ。
これが建て前の効能である。
同じような例で、10年ほど前の大阪南では、大麻の種が普通に売っていた。
大麻は発芽させた瞬間から取締法に引っかかるので、「このタネは観賞用なので、絶対に発芽させないでください」との注意書きが貼り付けられていた。
もちろん、これも建て前と言う名の詭弁である。
どの世界に大麻の種を部屋に飾って見て楽しむ人間がいるのだ。
しかし、前例と同じく禁止される理由に該当しないので、罰せられないわけだ。
建て前は役に立つ。
人間社会では建て前によって救われることも多くあるのである。
時には詭弁を建てて道理を封じ込めるのも、必要になることだってあるのだ。
でも大麻の種はさすがにダメだったようで、最近は全然見なくなった。
多分、引き際も大事なのだろう。
詭弁は用法用量を守り、正しくお使いくだはい。
ダンス
僕はダンスが下手なようだ。
非常に気色の悪い動きをしているようである。
最近音楽フェスに行く機会が多く、週末は楽しく身体を揺らしている。
最近は猫も杓子もインスタグラムなので、他人がUPした投稿に自分が写り込んでいることも少なくない。
夜長の徒然に検索をかけていると、自分が踊っている姿が長時間写り込んでいる動画が見つかった。
なかなかおぞましい踊りだった。
前かがみに猫背でやたらと手をジタバタしている色白で胴の長いアジア人が写っていた。
そもそもリズムが微妙にズレている。
なぜ隣の友人が僕を見てげらげら笑っていたのかようやく理解ができた。
まあ楽しんだもの勝ちなので良いのだが、それにしてもちょっとひどすぎた。
次回からはせめてもう少し背筋を伸ばそうと思う。
ダブり
アメトークでダブり芸人というのをやっている。
うちの高校でのダブりは悲惨だった。
僕らの次の代から制服が変わったのだ。
僕らの代までは上下グレーの墓石ライクな制服だったが、次の代からは上下で色の違う割と小マシな制服だった。
つまりダブると卒業まで小マシな制服の中で墓石カラーの制服を着ることになる。
ダブるには最悪のシチュエーションだったのである。
幸い僕でも中上位につけられるぐらいに学力が残念な学校だったので、留年の心配はなかったが、それでもやっぱりダブる奴がいた。
ダブる奴には二種類がいた。
開き直って順応していく者と、溶け込めずに学校を去る者である。
学年が上がった時、ある同級生がダブったと聞いた。
全然仲良くもなかったが、「ドンシ」という強烈なあだ名をつけられていたので存在は知っていた。
ちなみに本名は井上なのだが、点を二つ足して「丼士(ドンシ)」だった。
由来は知らないが、つまりそういう存在だった。
本当に嫌な奴だと自分でも思うが、進級したその日に留年したドンシを一年生のクラスにわざわざ見に行った。
自分たちが昨年度使っていた教室をひとつひとつ見て回り、ドンシの姿を探したのだ。
二、三教室目でドンシを見つけた。
ドンシは俯き加減で席に座っていた。
制服の違いから、ダブったのは誰の目からも明らかだった。
それでなくても周りは先週まで下級生だった連中なのだ。
誰とも話せないし、誰も話しかけなかった。
ドンシはこちらに気づくと少し全員の顔を睨んだが、また元の俯き加減の無表情に戻った。
その時、彼は遠からずこの学校を去るだろうと確信したことを覚えている。
その後、彼がどうなったかは全く知らないが、どこかで元気でやっていればいいなと思う。
偽物
高校の時、ラーメン屋でバイトをしていた。
このラーメン屋はかなりのガテン系で、飲食業界でYAZAWAばりの成り上がりを夢見た熱い若者達(及びおっさん達)が日々汗を流して働いていた。
店長を筆頭に社員はだいたい元ヤンキーの方々だった
。
ある日、バックヤードでたまたま居合わせた店長と話をしていた。
店長は当時40歳過ぎで僕と同い年ぐらいの息子がいたので、よく可愛がってくれていた。
店長がタバコを吸うとき、火をつけながらライターを僕に見せてきた。
金色の高級そうなライターだった。
店長は僕にライターを見せながら、
「これはデュポンっていう会社のライターなんやけど、ホンマは偽物なんや」と僕に言った。
更に「偽物やけど、俺ぐらいの人間が持ってると本物に見えるねん。お前が持ってても偽物にしか見えへんやろ?だから大物になって偽物が本物に見えるようにならなあかんねん」と言った。
僕は「あ、はい」とだけ答えた。
なんか良い事を言ってる雰囲気を醸していたので何も言えなかった。
でも、どう見えようと偽物は偽物じゃないか?
いい歳して偽物のライター持って本物に見えると自慢するのってクッソ恥ずかしいしダサいことではないのかと。
大きく見えていた店長をひどく矮小に感じた時だった。
その一件以来、高級品の偽物を買ったり持ったりしなくなったので、それは良かったと思っている。