下京区コンプトン

下京区コンプトンに住んでいました。

痕跡

人間は、一日に約100本ほど頭髪が自然に抜けるという。

つまり、僕たちは1日に100回ほど自分の痕跡を落としながら、

日々の生活を送っているということになる。

 

下京区コンプトンにも、時折人が遊びに来ることがある。
たいていはいわゆる「宅飲み」というやつだ。

 

そういった宴があった後に部屋を掃除していると、
必ず自分の物ではない髪の毛が落ちているのが見つかる。

自分は黒髪で短髪なので、長かったり色が入っていると他人の髪というのがはっきりとわかるのである。
とりわけ女性の髪は大変に目立つ。

 

不思議なことに、入念に掃除をしても次の掃除のときに結構な確率で他人の髪が見つかる。
その間、自分以外に誰も部屋に入っていなくても、である。
おそらく前回の取り残しなのだろうが、6畳ほどの狭い住まいを割と時間をかけて掃除している。
それにも関わらず、まだ隠れていた他人の痕跡が出てくることに驚かされる。
これほどまでに人の痕跡がその場に残り続けているのかと。

 


このことに気づいてから、

部屋に落ちている髪の毛から浮気が発覚するという話に納得がいくようになった。
髪の毛から確証を得ることはできないが、非常に有力な物的証拠だ。
原始的だが、大変に効果的である。

 

パートナーの浮気を疑っている女性の皆さんは、

とりあえずパートナーの部屋にコロコロをかけてみることをおすすめする。
小一時間で物証か安心を得られるならパフォーマンスは抜群である。

 

パートナーがいるにも関わらず下半身が収まらない男性の皆さんは、

パートナーより早く、かつ入念に自分のテリトリーをコロコロがけするか、

パートナーと同じ髪質の女性と浮気すると良いと思います。

 

腕毛

女性の腕をつい見てしまうクセがある。

フェチとかではなく、なんとなく視線の散る先に腕があるのである。

これは仕事中でも出るクセだ。

 

仕事柄、様々な年齢層と人種の女性の腕を見るが、総じて言えるのは日本人の女性は非常によく腕毛の処理をされているということである。

日本人、しかも若い女性で腕毛が見える人はほぼ皆無だろう。

 

しかし、外国人は違う。

むしろ腕毛の処理をしているのが少数派だろう。

特にラテン系の女性は無処理率が高い気がする。

ラテン系の女性は毛色が黒い人が多いので、とりわけ腕毛がよく目立つ。

なんなら自分よりすごい人も結構いる。

ものすごい美人の女性がなかなかの腕毛具合で、ohジーザスという気持ちになるのもたびたびである。

 

これは聞いた話だが、外国人女性は腕足の毛の処理よりも下の毛の処理に力を入れるらしい。

なので外国人男性が日本人女性とコトを致す際、腕足の毛の処理の完璧さに対して、あまりにありのままの下の毛に驚くということだ。

 

同じような話で、ラオスの女性は楊枝で歯を穿る時は手で覆い隠すが、ハナクソをほじる指は隠さない、と言っていた友人がいた。

 

文化や風土、人種が変われば美の重点を置く位置も変わってくるのである。

今僕たちが意識している美は、他の場所ではどうでも良いことなのかもしれない。

 

年齢

気付けば28歳になっていた。

ものの数ヶ月のうちに29歳になり、三十路も目前となってきた。

周囲も結婚しだして、妙な焦燥感とともに日々を送っている。

 

年齢を感じるのは、死んだロックスターの年齢を追い越した時だ。

中学生の頃にパンクロックに傾倒し出した時、シド・ヴィシャスははるか年上だった。

カッコよく駆け抜けて死んでいったパンクスターに密かな憧れさえあった。

 

大学に入り国内外旅しまくっていた頃、気付けば僕はシド・ヴィシャスの年齢を超えていた。

いつの間にかパンクスターより年上になっていた。

 

ブラック企業に勤めて脱出の機会をうかがっているうちに、オーティス・レディングより年上になっていた。

 

一応安定した仕事を得て遊び呆けてるうちに、ジミ・ヘンドリクスより、ジャニス・ジョプリンより、ジム・モリソンより、カート・コバーンよりも年上になっていた。

 

いつの間にか憧れたロックスター達よりも長く生きていた。

 

今思うのは、彼らは彼らの人生を燃やし尽くしたのだろうが、やっぱり死んでしまうのは寂しいことだ。

長生きしたいとも思わないが、生き急ぎたいとも思わない。

 

ピート・タウンゼントは「老いぼれる前に死にたい」と歌ったことを後悔しているという。

多分、老いぼれたら老いぼれたなりに良いことや楽しいこともあったのだろう。

 

こんな調子で僕はマーク・ボランや、キース・ムーンや、ジョン・バーナムよりも年齢を重ねていきたいと思っている。

体臭

体臭が気になる。

自分のである。

 

体臭というのはとにかく自分で気付きにくい上に、指摘されづらいナイーブな問題である。

なのでなかなか強烈な臭いを放っている人も、自覚がないというケースが案外に多いのである。

 

故に、自分が臭っていないかが最近気になっている。

気づいたら是非人目を憚らずに教えて欲しいと思う。

 

以前にスタイリストの人に聞いたところ、北欧のモデルは臭いがキツい傾向があると言っていた。

本当に綺麗なモデルさんが多いが、衣装替えの時「マジかよ」って人が多いらしい。

 

美人だが臭いがキツい、というのはなかなか究極の選択を迫られている感がある。

 

超絶美女だが臭いが気になる人に誘惑された時、あなたならどうするだろうか。

 

僕なら臭いを気にすることなく突き進む。

だって慢性鼻炎だから。

 

彫り物

彫り物が好きだ。

入墨のことである。

別に自分で入れたり、わざわざ見たりはしないが、見事な彫り物はやはり見事であり、職人の技や粋を感じる。

特に和彫りは殊の外繊細でカラフルであり、情緒感に富んでいる。

 

彫り物を見るのは主に銭湯である。

なぜか彫り物のある人々は銭湯が好きだ。

京都市内の男風呂ならほぼどこでも何らかの彫り物を見ることができるだろう。

下京区コンプトン界隈は治安がよろしくないので、比例して銭湯での彫り物目撃率が上がっている。

 

先日、お休みの日に銭湯に行くといつも以上に彫り物率が高かった。

何か会合でもあったのだろう。

特に害がある訳でもないので、気にせず湯浴みを楽しんでいた。

 

やはり大人数が彫り物を入れてると壮観なものがあったが、ひときわ目を引いたのは肩からアキレス腱あたりまで背面いっぱいに彫られた酒呑童子だった。

ポーズをとった酒呑童子がダイナミックに描かれ、それはそれは見事だった。

 

今日は良いものを見たな、と思いながら風呂から上がると、一足先に上がっていたであろう酒呑童子氏が脱衣所にいた。

 

まだ上半身は裸で、酒呑童子がこちらを睨んでいたが、何か様子がおかしかった。

 

酒呑童子の顎から胸にかけて何かが貼られていてが見えないのである。

貼られているものが肌色だったので一瞬何かわからなかったが、それはベージュの湿布だった。

 

多分、身体を何かで痛めているのであろう。

腰のやや上に、巨大な湿布が二枚も貼ってあった。

酒呑童子はその下敷きになっていたのである。

おまけに肩にも小さいのを貼っていたので、酒呑童子の両腕が拘束される形になったいた。

 

勇ましい酒呑童子が、一気に滑稽で哀愁あるものに変わった。

酒呑童子の目が僕に語りかけるようだった。

「どうしてこうなった」と。

その刹那、服を着られて酒呑童子は見えなくなった。

 

誰も老いには勝てない。

彫り物の最も難しいところは、歳をとってから彫り物をカッコ良く見せ続ける努力なのかも知れない。

 

 

snow

昨年から、スマホアプリのsnowが爆発的に流行している。

写真やムービーで人の顔にエフェクトをかけるアプリである。

 

SNSなんかで色んな人がやっているのを見ていたが、僕は一度もやったことがなかった。

だいたい全然面白くなかったからである。

あと、自分の顔にエフェクトをかけることに何ともいえない気色悪さも感じていた。

 

しかし昨晩、飲み屋で隣にいた人と盛り上がり、snowを撮ろうという手筈になった。

 

慣れた手つきでアプリを立ち上げ、自撮りモードに。

どうやら選んだエフェクトが自撮りに乗っかる形らしい。

 

しかし、いつまでたってもシャッターが押される事はなかった。

僕の顔がどうやっても認識されないのだ。

暗さのせいか、日焼けのせいか、はたまた僕の顔は顔ではない何かなのか。

 

原因は全くわからないが、とにかく僕だけエフェクトがかからない。

顔の入れ替えも出来ない。

こんなことは今までにないとのことだった。

 

こうして僕はsnowを体験できずに終わった。

 

今、あれだけ嫌っていたsnowをやってみたくてしょうがない。

 

古墳

職場の後輩が家の近くで古墳を発見したと言う話をしていた。

確かに京都はさすが古都というだけあり、各地に古墳が点在している歴史の宝庫である。

 

僕たちの地元には裏山があり、やはり裏山の中にも古墳が多数あった。

古墳とは名のつくものの、ただの崩れかけた土盛りに近いものがあり、大して管理もされていなかったのが事実である。

 

小学生だった頃のある日、裏山で遊んでいる時に古墳の中に入ってみようという話になった。

そのエリアの古墳は直径で10m程度のものが数個点在しており、入り口も特にふさがれることなく開いていた。

子供の遊びにはもってこいである。

 

ジャンケンに負けて入った古墳の中は異様だった。

妙な家財道具は置いてあるし、焚き火の跡もある。

どう見ても人が生活している、もしくはしていた感じで気味が悪かった。

 

誰がそこで生活をしているかはすぐにわかった。

ある日小学校の陸上部の練習で山に入った時、古墳に程近いところで、全裸のおっさんが川で体を洗っていたのだ。

全裸で。

 

みんなが悲鳴をあげる中、僕及び友達数人は確信していた。

あいつは古墳に住んでいる奴に違いない。

古墳に住む、野生のホームレスなのだ、と。

一応言っておくが21世紀初頭の話である。

 

特に危害を加えるでなく野生のおっさんは去っていった。

陸上部の練習も夏の終わりまでそこで行われた。

今なら確実に案件になっているが、その頃は全然騒ぎにもならずに終わっていた。

 

今思えば、あの頃はそういう曖昧さが許容されていた気がする。

積極的に介入はされないにしても、放っておかれるぐらいの自由はあったのだ。

例え住所が古墳の中であってもである。

 

そんな曖昧さが今日には欠けていると思うし、当時いた曖昧な暮らしの人たちは一体どうしているのだろう、と気になることがたまにある。