思い出し旅日記1
2020年9 月
夏も過ぎてコロナ騒ぎも少し落ち着いたこの頃、8か月待たされたオーストラリアのパートナービザがようやく降りました。
当時は奈良にあるゲストハウスの管理人をしていたのですが、任に着いたその年の3月からコロナが大流行。
閑古鳥揃って大合唱しているような状況で、どの道長くなさそうだったので即日退職を決意しました。
経営母体の方も毎秒赤字を垂れ流し続ける施設を始末したかったようで、トントン拍子で無職に突入。
(ちなみに経営母体もほどなくして爆発四散したようです、合唱)
コロナワクチンも開発途中だったので、この頃はほぼどの国も鎖国状態にありました。
そのため、一度オーストラリアに渡航すればいつ帰って来れるかわからない。
折しも国の肝入りで「Gotoトラベル」が開始されるタイミングも重なり、この空き時間を旅行に費やさない手はないと思いました。
そうとなればまずは計画です。
ちょうど乗っていたバイクの譲り先が決まったため、この機会をラストランとする事にしました。
この旅行には 二点制約というかチェックポイントがあり、
①家族旅行の待ち合わせのため、9月18日夜までに網走に到着すること
②親戚の結婚式のため、10月3日までに東京に到着すること
以上をクリアする行程を組まなければなりません。
ここに行きたいところや登りたい山などの兼ね合いを加味した結果、最終的に24日かけて京都⇔北海道をフェリーとバイクで旅する長大旅行になっていました。
それでは以下、思い出し旅日記です。
2020年9月13日
19時半ごろに自宅を出発。2時間ほどかけて京都北部の港湾都市、舞鶴を目指します。
夏の風が自由(無職)の身に心地良かったのを覚えています。
バイク乗りやトラック運転手以外にはあまり知られていないですが、この港から新日本海フェリーが小樽行の船を運行しています。
市内から山間部に入ると意外に風が冷たく、早速ダウンを出す羽目になりました。
休憩と買い出しを挟みながら舞鶴港に着くと、深夜に近いにも関わらず操車場は北に向かうバイクと車で溢れていました。
北海道は冷え込みが本州よりずっと早いため、関西では残暑厳しい9月半ばでも早いところは紅葉が始まります。
バイクで走るのにもちょうどいい気温のため、この時期に北海道へ向かうバイク乗りは少なくないのです。
船は新しくなければボロ船と言うわけでもない、ごくありふれたフェリーです。
唯一違うのは、速力30ノットという護衛艦並の速度で、荒れる日本海をぶっ飛ばしていくところでした。
インターネット某所では「暴走族」とまで称されているようです。
そのため、船内は恐ろしく揺れます。出発してしばらくするとまっすぐ歩くことが困難になってくるし、風呂は造波プールと化します。船内のイス・テーブルは全てワイヤー固定され、船舷の通路は危険なためほとんどの時間封鎖されていました。
船酔い客が多いことは随所に置かれた、用途はあまり考えたくない桶が物語っています。僕は体質上あまり船酔いしないのですが、それでも乗船中ずっと身体に違和感を覚えていました。
日本列島の半分近くを船で移動するため、乗船時間はほぼ丸一日の16時間。船酔いする人にとっては拷問と言っていいでしょう。しかも遅延が多いらしいです。
9月14日
食って飯食って寝て起きてを繰り返し、風呂に余分目に入ったりして時間を潰し、翌日午後8時ごろに小樽に到着しました。
到着後、下船すると同時ににわか雨が降ってきました。
結構きつい雨でしたが、小樽港から市街地は5分ほどなので雨具を出さずに強行突破を決意。
しばらく走って、宿泊地のドーミーインプレミア小樽に到着。
夕飯は船で済ませていたので、北海道上陸記念に一杯やりに行こうと早速外出しました。
繁華街までは10分ほど歩くのですが、道中おかしなことに気づきました。
めまいがする上、まっすぐに歩けません。そう、陸酔いです。
20時間も猛烈な揺れに晒されていた身体に揺れの感覚が染み付いてしまい、陸でもなおそれを感じてしまうのです。
過去にも経験はありましたが、歩くのに支障が出るほどのものは初めてです。
この状態で飲んでも翌日以降に響くため、この日は大人しく風呂に入って就寝しました。
9月15日
早めに休んだため、快適な目覚めでした。
実はこの日ドーミーイン泊にしたのは、ここの朝食が目当てでした。
いくらを始めとする食べ放題の海鮮が有名で、コロナの影響で小鉢盛りになっていましたが幸いバイキング形式は継続されていました。
普段は飯付きの宿にも泊まれない程の貧困旅行をしているため、これは破格の贅沢でした。卑しくも三回おかわりしました。
この日は小樽から富良野へ抜け、翌日の旭岳登山に備えて麓の温泉に一泊の予定。
でしたが朝飯をよくばりすぎたのと準備に手間取って、出発が九時すぎになっていました。ツーリスト失格。
ちなみにバイクが110CCなので、行程は全て下道です。
小樽を出ると石狩まではずっと産業道路を走ります。どう考えても速度違反の10トントラックに怯えながら、風の強い海沿いの道路を走っていきます。
石狩をすぎると景色はガラッと変わり、北海道らしい畑アンド畑時々家が延々と繰り返されます。
いくつかの峠を越え、富良野についたときは既に2時近くなっていました。
富良野は行程的にスルーしたほうが早かったのですが、知人の某カレー菩薩様から「北海道に行くなら唯我独尊でカレーを食べなさい」という神託を賜っていたため、そのためだけに寄りました。
ちなみに菩薩様は奈良でスパイスカレー屋さんをしておられます。現人神。
唯我独尊はログ風のお店で、いかにも手作り感あふれる店構えでした。
この「手作りログ風」という建物はこのあと北海道のいたるところで見ることになります。多分流行った時期があったのでしょう。
肝心のカレーは欧風で、いくぶん古色豊かといった感想は否めませんが、コクがあって美味しかったです。
このお店では「ルールルルー」というおかわり呪文を唱えると、ご飯が残っている限りルーのおかわりがもらえます。
こういったクセの強さは正直苦手なのですが、空腹には抗えずに恥を偲んで詠唱しました。
食後は寄り道せずに旭岳温泉を目指したのですが、北海道ってめちゃくちゃ暗くなるの早いんですね。どうやら緯度が高いことが関係しているようです。日本は縦に長いからな。
暗くなるギリギリまで走り、日没寸前で旭岳温泉に到着。
京都にあるゲストハウスの系列店で、安宿にも関わらず温泉に入れるありがたい宿で一泊。
旭岳温泉で宿泊・日帰り入浴|ケイズハウス北海道【公式サイト】
ゆっくり疲れを癒やしたあとは、翌日の登山に向けての準備を始めたのでした。
過去の旅行をtableauでビジュアライズしてみる
最近tableauを勉強しています。
tableauとはデータビジュアライズや分析に用いるBIツールの一つで、わかりやすく言うと、複雑なデータを理解しやすくするグラフや表を作れるソフトといった感じです。
僕はペーペーなので、シンプルな構造のものばかり作っていますが、
超絶技巧でグラフを組み合わせ、デザインも俊逸なダッシュボードを作り上げる人もます。
無料版のtableau publicではこういったプロの人たちがオープンデータから作ったダッシュボードを見ることができます。
フォローしているChantilly Jaggernauth さんが作ったロンドンパクチャリMAP。
https://public.tableau.com/app/profile/yu.niikura/viz/_16431796902740/1_1
国勢調査のデータから終戦〜高度経済成長時の各都道府県人口増減など
https://public.tableau.com/app/profile/yu.niikura/viz/_16462704389030/1
国内オープンデータをビジュアライズして遊んでいました。
ちょっと要領を覚えてきたので、今回は自分が過去何カ国を訪れ、何日どこに滞在したかのデータを作成し、それを一覧するダッシュボード作りに挑戦しました。
まずはデータ作りからです。
データとして扱う【旅行】の定義から。
今回は「海外旅行または3泊以上の国内旅行」とした上で、過去の旅行のデータを作っていきます。
tableauは大体どのデータベースとも接続可能なのですが、今回は一番お手軽なgoogle スプレッドシートを使っていきます。
ここ10年の海外旅行については簡単でした。
というのもオーストラリアのビザ申請時に海外旅行経歴を出す必要があり、すでに一覧を作成していたからです。
少々厄介だったのは、国内旅行及び10年以上前の旅行についてです。
直近5年ほどのものについては、instagramやgoogle photo投稿日時から確認しました。10年以上前のヨーロッパ旅行も、Facebookにログが残っていたため日付を拾うことができました。
問題はそれ以上前の国内旅行です。
僕は大学一回生だった15年前、2007年の夏頃から旅行を始めたのですが、当時はスマートフォンさえ普及していませんでした。
当時のガラケーが手元にあるはずもなく、過去の手帳なども全て実家に置いてきているため細かい日付の特定が困難です。
最終手段として残されたのは、古の呪われしSNS「mixi」を開くことでした。
今の若い人にはわからないかも知れませんが、mixiとは2000年代に隆盛を極めた純国産SNSです。
僕はこのSNS内の日記をかなり頻繁に更新していたので、当時の旅行の日程をほぼ正確に割り出すことができました。
10年以上前のサムい日記を辿っていくのはかなり精神を削られる作業でしたが、データを得るためには仕方ありません。
トップ画も名前で既にすべっている。
ようやくデータが出揃ったので、早速tableauでダッシュボード構築をしていきます。
まずは地図で見やすくどこに行ったか一覧表示。
結構マイナーな地域を訪れた国もあるので、詳細はリストで表示できるようにします。
さらに年ごとに行った国の数と日数を大きく表示できるようにして完成。
いやーすごいですね。ここ15年のうち571日、つまり約1年7ヶ月は純然と旅行に費やしていたことになります。
国数は意外と大したことないなという感じです。国内旅行が多いのと、一ヶ所滞在が結構好きなのが響いている感じです。ベトナムとか1ヶ月以上いたし。
大学生の四年間の集計がこれ。
夏休みは毎年1ヶ月以上沖縄にいたので、日数の大半は沖縄に費やしてると思います。
今考えたら世相も安定していたので、もっと海外色々行けばよかったなぁ。
これは社会出てから30歳なるまで。
流石に日数は少ないですが、少ない収入と会社員という制約があった割にはまあまあ色々行ってますね。
結構長い連休取らせてくれた理解ある元勤め先に感謝です。
直近3年がこんな感じです。
嫁と仕事やめてダイナミック婚前旅行からのオーストラリア移住した2019年の旅行が大半を占めてます。
最近はコロナの影響であまり旅行ですので。
という訳で、旅行をtableauでビジュアライズしてみた話でした。
tableau publicにもアップしてるので、暇でどうしようもない人は見てみてください。
https://public.tableau.com/app/profile/yu.niikura/viz/Thetravelhistoryofmylife/1
広島(前)
多くの人は修学旅行と言えば京都を思い浮かべるが、その京都で生まれ育った子供達はどこへ修学旅行に行くかと言えば、広島である。
僕たちが子供だった頃の京都は今よりも政治的に左翼色が強く、その影響もあってか反戦教育や同和教育に非常に熱心だった。
修学旅行には何かと平和教育がセットになっていて、僕の場合小学校で平和資料館や原爆ドーム、中学校では松代の大本営壕がそれぞれルートに組み込まれていた。
おそらく京都の公立学校で教育を受けた同世代の九割以上は、小中のどちらかで広島に行っているはずである。
僕はこの「原爆」の絡む平和教育が嫌で仕方なかった。
これは小学校低学年の頃、担任の女教師が「はだしのゲン」の絵本の読み聞かせするというトチ狂った授業を行ったことに起因する。
知っている人も多いと思うが「はだしのゲン」では被爆者やその遺体がかなりどぎつい表現で描かれている。これは作者自身が被爆者ということもあってリアルではあるのだろうが、10歳にも満たない子供に見せるのはいささか強烈すぎるものだった。
(思い出して調べてみたが、想像以上に強烈だった。教育といえどもこれを小学校低学年に見せるべきではないと、今でも断言できる)
しかもカラーの絵本で、女教師のおどろおどろしい解説も相俟って、感受性が強く臆病だった僕はショックで泣いてしまったのを覚えている。
以来「原爆」や「被爆者」というワードが怖くて仕方なかった。
結局修学旅行では、友達に協力してもらって目を瞑って資料館を全てやり過ごし、その後は子供らしい楽しみに溢れた旅行を楽しんだ。
それ以降、僕は公私で広島に行くことは全くなかった。無意識に避けていたのかもしれないし、もっと遠くに行くことに夢中になっていたからかもしれない。
月日が流れて20代も後半になった頃、偶然立て続けに広島と関わる作品と出会った。
戦時下の生活を描く柔らかいタッチのアニメと、戦後ヤクザ社会の暴力の連鎖を血眼のおっさんたちが演じるこの2作品は一見対極に位置するように見えるが、広島と原爆がストーリーに大きく関わってくるという点では共通している。
この2作品を観た後、僕はこのまま広島を見ないままにしていいものかと思いはじめた。
戦争や核兵器に関して、知識としては子供の頃とは比べ物にならないほど多くのことを知っているのにも関わらず、その核心であるあの資料館は見落としたままである。
それに今は昔と違って、自由に行動して、見たいものを見て考える事ができる歳になった。大人になった自分に、あの恐怖の権現であった資料館はどう見えるのか。誰にも邪魔されずに自由に歩く広島の街は、どんな景色なのだろうか。
いつしかその興味は小さな頃に患った恐怖を打ち消していた。
そして昨年の2月、僕は20年ぶりの広島旅行を敢行するに至ったのだった。
バスターミナルに着いた時、すでに時刻は昼過ぎだった。
京都からはたっぷり五時間はかかった計算になる。修学旅行では贅沢にも新幹線を使ったが、今回は自腹の旅なので片道は安価にバスで済ませることにした。
バスターミナルは紙屋町という広島市街の中心部に位置し、原爆ドームや平和資料館にも歩いて行くことができる。
宿に行くにはまだ早い時間で重い荷物もなかったので、早速資料館をに足を運ぶことにした。
通りに出るとまず目に入ったのが、図体の割に大仰な音を立てて走っていく路面電車たちだ。
広島は、おそらく日本で一番路面電車の発達した街だ。戦前から続くその歴史は、モータリゼーションで多くの都市から路面電車が姿を消す中も続き、今日まで残っている。
路面電車には、他にはない妙なかわいらしさがある。万物が1秒を争って動く世の中を、走れば追いつけそうな速度で頑張るその姿に安心感やノスタルジーを覚えるのかも知れない。
街にもゆるい空気が反映されてか、どこかゆったりとした雰囲気が漂っている。これは同じように路面電車が現役で走るメルボルンやリスボンにも共通した、路面電車があってこそ完成される、独特の雰囲気だった。
ビルの林立する電車通り沿いを5分ほど歩くと、急に景色が開けた大きな川に差し掛かる。川には相生橋というT字形の三又橋がかかっていて、その中程まで行ったところで見えてきたのは、20年ぶりの原爆ドームだった。
冬の午後の日差しはすでに傾き初めていて、原爆ドームは記憶よりもややセピア色に見えた。原爆投下から数えても75年経っているはずなので、経年劣化かも知れない。
近づいて行ってまじまじと見ると、中にかなりの補助鉄骨が入っていることに気づいた。それほどに劣化しているとも取れるし、ほぼ真上で核兵器が炸裂したにも関わらず立ち続けている恐ろしく頑丈な建物だとも言える。
半円形だと思っていたドーム部分は衝撃で片側がへしゃげていて、人の頭蓋のような嫌な形になっていることに気づいた時、有刺鉄線が軋むような鋭いいがいがした気持ちになった。
周囲の他の構造物とは違い、原爆ドームだけは明かな死の雰囲気を纏っていることに気づいた。
その後、資料館を見て周った。
最初少しだけ不安はあったが、流石に大人になっていたようで全ての展示物を落ち着いて見ることができた。
ただ、不思議なことに原爆ドーム以上に感情を突き動かされることはなかった。確かに館内では被爆者の血のついた衣類や、人骨が熱線で屋根瓦と融着したものなどの生々しいものも多く見たはずだった。そこにももちろん死の雰囲気はまとわりついていたが、あくまで切り取られた一個人や単一の死でしかないように感じられた。
原爆ドームで感じたもっと膨大な死は、その規模からくるのだろう。巨大な建物が一瞬にして無惨な姿になるその威力や、周囲に存在したであろう暮らしが、建物が、人々が、どうなってしまったかを否応なしに想像させるのだ。
僕はやはり広島に来て良かったと思った。広島や原爆という漠然とした恐怖で目を背けていたものと正面から向き合えた気がしたし、少なくとも僕だけが履修しそびれた「平和学習」とやらを取り戻せたように思う。
できなかったことができるようになるのは、いくつになっても嬉しいものだ。
原爆ドームから少し歩いたところにある病院の横に、原爆の爆心地を示した碑がある。そこでしばし空を見上げてから、ぼちぼち宿に向かうことにした。
淡路島(後)
冬の日没は思ったよりも早く始まり、洲本に着くともう暗くなり始めていた。
国道沿いに大手の量販店や外食チェーンが軒を連ね賑やかだったが、逆に言えば地方に行けばどこでも見られるありきたりでつまらない風景だった。岩屋に比べると活気は多少感じるが、情緒がない。
バスの道中で友人に連絡していたが、仕事が終わるのにまだ1時間ばかりはかかるようだった。
停留所に着く前に大きな煉瓦作りの建物が見えたような気がしたので、ひとまずそちらを見物することにした。
建物はどうやら何かの工場跡のようで、建物の横は広い芝生公園になっていた。見たところ明治か大正頃といった独特の重厚感があり、内部はかなり観光用に整備されている様子だった。
案内板を見ると、カネボウの前身である鐘ヶ淵紡績の工場と倉庫だったらしい。
言っては悪いが辺鄙な島なので、百年も前にここまで大掛かりな工場があったことはかなり驚きだったが、恐らくは地理的な要因でこの地に作られたようだった。
工場跡の直ぐ裏側が湾に繋がる河口部に面しており、船からの積み下ろしが容易だったのだろう。特に紡績は大量の原料と製品を同時に捌く必要があるので、この立地は甚だ有利だったに違いない。
水運が主な運輸手段だった頃、大型船舶は沖留めされていたはずなので、この川には荷を中継する小舟や艀が行き交っていたのだろう。
僕は史跡を見るとき、往時の姿を想像する出来る瞬間が一番好きだ。
実際はただの暗い水路だったが、島民や技術者たちが行き交ったであろう川の姿を想像するのは楽しかった。
友人のKと合流したのはその直ぐ後だった。彼は新卒で兵庫県の金融機関に勤めていたが、配属一発目で最僻地の淡路島を引き当てるという面白い運の持ち主である。
本人は嫌がってはいたが元々の人格が素朴なので、田舎町に辟易している様子もなく元気そうだったのが幸いだった。
晩飯は何を食ったかは覚えていないが、学生時代の話や卒業前に行ったベトナムの話をしたと思う。
彼は翌日も仕事があったので早めに切り上げて、借りているワンルームアパートで泊めてもらった。クリーニング店のハンガーが大量に置いてあり、スーツを着て毎日仕事をするのは大変だろうなと思った。
翌日はKに合わせて朝早く出た。前日に増して天気が悪く、今にも降り出しそうな天気だった。
チェーンの牛丼屋で朝飯を済ませて、洲本の町をしばらく歩いたが、特に目新しいものは見当たらなかった。
いよいよ行き先を決めなくてはいけなくなった。洲本にはこれ以上見るものもなさそう
なので、どこかに行くなり戻るなりしなければならない。
天気も悪いので四国に行ってしまってもいい気がしたが、そういえば「ナンダン」の謎をまだ解いていないことに気がついた。
おそらく、もう淡路島だけをぶらぶらと歩くような機会はあまりないと思い、せっかくなのでまだ見ていない島の南端の集落まで行ってみることにした。
バス停までの道中、ついに雨が降り出した。傘を持っていない時の冬の雨ほど鬱陶しい
ものはないが、バスを逃すと次までずいぶん間が空いてしまうので、濡れながら走った。
福良まではまた一時間を要した。
福良はどちらかというと岩屋に似た漁村だったが、湾が大きいため集落も広い。
ただ岩屋と同じく道路の恩恵は素通りしていっている様子で、曇天と寒さも合間って陰惨な雰囲気だった。雨は降ったり止んだりで、傘をさすまでもないし、傘を売っているところもないと見える。
それにしても寒い。冬でも暖かいナンダンとは結局なんだったのか。夏目雅子も見当たらない。
蟹のはさみのように奥まった湾全体が集落になっているため、集落の両端が縦長に伸びる形になっている。僕ははさみの左側を海に沿って歩いてみた。
岩屋と違うことは、人の気配や往来が多いことで、その理由は海辺に立ち並ぶ水産加工場にあった。もう昼も少し過ぎているので片付けに入っているところが多いものの、とりあえずは人の営みが感じられて少し安心した。
断続的だった雨が強まってきた時、ちょうど一軒食堂が見えたので昼飯を済ましに入る。
店内は驚くほど混雑していて、様子を見るに半分以上が観光客のようだった。たまたま入った店だが、どうやら当たりの予感がした。
注文が終わってビールを飲みながら改めて周りを見回すと、古めかしい店構えもさる事ながら、中途半端な漫画や古雑誌が雑に置かれた本棚、壁を埋め尽くすメニュー・謎の格言・微妙な人のサイン、汚い招き猫、恐ろしくらいに地方の食堂の特有の装飾感覚をしている。嫌いではない。
手持ちぶさたでメニューを眺めていると、裏に少し古い淡路島の観光地図が挟まっているのが見えた。
「ああ」思わず声が出た。南淡だ。
ナンダンは南段でも南壇でもなく、南淡という今は消えた市町村名だった。古い地図には旧市町村名が記されていて、今ここを含む淡路島の南端部分が南淡だったのだ。
店を出るともう雨は止んでいて、少し日差しも出ていた。
腹はいっぱいで、少し酔いも回っている。「冬でも暖かい」南淡の日差しが薄く濡れた上着の背中を暖めた。
どうやら僕は満足したようだったので、その足で三宮行きのバスに乗って帰路に着いた。
淡路島(前)
京都に住んでいた時は、定期的にどこか遠くへ行ってしまいたい衝動に駆られた。
普段は気に入っている三方を山に囲まれた土地が妙に窮屈に思え、閉じ込められているような圧迫感と何かに追い立てられ続けているような焦燥感が、じわじわとつま先から這い上がってくるのだ。
友達と昼から酒を飲んだり、映画を観たりと現実逃避をしているうちにやり過ごせていたが大半だったが、それすらも叶わないような心持ちの時は、素直に街を出ることにしていた。
電車に乗れば大阪やら滋賀やら、ちょっと足を伸ばせば神戸へも出られるので、あまり知らない街で途中下車して、ぼんやりしたり、大抵は酒で酩酊してから家に帰っていた。
ある年の初冬、とてつもなく大きなそれが来て、いてもたってもいられない気分になった。
おそらくこの気分は到底いつもの手段では抑えきれないと考えたので、最低限の荷物をカバンに詰めて、2日ほど帰らないかも知れないことを家族に伝えて家を出た。
阪急沿線に住んでいたので、最寄駅から電車に乗って、行けるところまで西へ西へと行ってみようと思った。
阪急電車を十三、三宮と乗り継ぎ山陽電鉄に乗り換えると、須磨を過ぎたあたりから車窓より海を眺めることができる。
そのあたりまで来るともう淡路島の島影がはっきりと見えてくるのだが、それを眺めているうちにふと「瀬戸内少年野球団」で郷ひろみ演じる傷痍軍人が、「淡路島のナンダンは冬でも暖かい」と言っていたのを思い出した。
ナンダンが何を意味するところが観た時はわからなかったが、「南段」か「南壇」とでも書くのだろうと検討をつけていた。
「南」は間違いないだろうから、淡路島の南側のことを指すのだろうか?それとも南向きの段々畑をそう称するのだろうか。
「ナンダン」の真相が気になり始め、とりあえず淡路島に渡ってみるのもいいかなと思い始めた。
明石駅で降りた。
淡路島までは垂水から高速バスで橋を渡っていく方法と、明石から高速船で海峡を渡る方法があったが、僕は船が好きなので高速船を選ぶことにした。
明石の街は穏やかで、寂れすぎず賑やかすぎず、妙に落ち着きのある風に思えた。
港町特有の賑やかさと山手の穏やかさのちょうど中立地帯といった雰囲気に思える。
いつかに僕の両親が家を買う際に、京都と明石とで最後まで悩んだといっていたが、この雰囲気にその理由がある気がした。
僕もここで育ち学校に通い、友達を作って成長する可能性があったのだ。
不思議な親近感を覚えながら、商店街の周りをうろうろした。
せっかく明石に寄ったので商店街で明石焼きを買い、待合所で食べようと船着場に行くと、ちょうど船が出発する時間帯だった。
明石海峡を車の何分の一かの速度で進みながら、船上で明石焼きをつまんだ。
僕はこの時明石焼きを初めて食べて今日まで、美味い明石焼きというのを一度も食べたことがない。
味のない卵焼きを薄い出汁で流し込んでいるように思えて、食べ切りはしたが好んで買うようなものではないように感じたし、今もって良いものに当たったことがない。
船は橋の下を潜り、明石から見て橋の左側に位置する岩屋という集落についた。
明石に比べて格段に寂れている。おそらく漁民が多く住む雰囲気なのだが、過疎と高齢化の影響か人影が見えずひっそりとしていた。
地図で見ると本州につながる橋のちょうど袂に位置するように見えるが、実際には橋は丘陵帯のてっぺんに繋がっており、集落はその丘陵帯の北面と海峡の間にへばりつくように存在する。
集落のほぼ真上を通る橋はつながる道は丘陵帯を貫いて南に伸びていて、本州四国からの自動車とその恩恵は、岩屋の集落の頭上を素通りして行っている様子だった。
集落は古い漁村のようで、港と中心の道路を除くと、密集する木造家屋と細い路地で構成されている。全体が人間のサイズに合わせて長い年月をかけて成立していった、自動車以前の古い集落という趣が、僕にはとても好ましく思えた。
人間のために作られた人間だけの道は、真ん中を堂々と歩く自由がある。人間以外の何者にも脅かされないという現代の道にはない安心感がある。
ただ、その集落を構成したであろう人たちは大部分は海を超えて帰って来なかったようで、残ったものも老いてしまい集落も活気を失った様子だった。
船着場で手に入れた淡路島全島の地図によると、島の東側のくびれているちょうど真ん中に洲本という大きな町があるようだ。
僕はこの時まですっかり失念していたのだが、学生時代の友人が転勤で淡路島に住んでいるというのを以前聞いたことがあった。確か住まい一番大きな町と言っていたので、洲本だったはずだ。
この日の宿を求められるかも知れないと駄目もとで連絡を入れると、頃合いが良かったのか返事はすぐに返ってきた。友人の住まいは確かに洲本で、仕事が終わった後で良ければ泊まりに来ても構わないとのことだった。
洲本まではバスで一時間ほどで着くようだったが、まだ昼もそこそこの時間なのでもう少しこの岩屋で滞在ができる。
商店などを見流しながら集落を歩いていると、板張りの多い家並みの中に一見だけ暗い水色に塗られた擬洋風建物が目についた。
おそらくは戦前に建てられたであろう見様見真似で作った洋風といった門構えが妙に可愛らしかった。門の上に赤い文字で大きく「温泉」書いてあり、湯の暖簾もかかっていのを見ると風呂屋らしい。
温泉かどうかは怪しいものだったが、体も冷えてきた頃合いなので風呂で時間を潰すことにした。
内装はかなり古めかしいが手入れはよく行き届いている様子だった。特に木製のロッカーは重厚で、ここほどのものは古い銭湯が多く残る京都でも観たことがない。
風呂は中央に大きな楕円形の湯船が鎮座し、端に据えてある小さな水風呂の他はカランすらなく、体を洗うには湯船から桶で湯を掬うしかない大変に古い形式だった。
時間がよかったのか、僕の他には漁師らしき老人が一人いるだけだったので、割合のんびりと過ごすことができた。風呂は水道水ではなさそうだがかと言って温泉でもなさそうな泉質だった。
風呂に浸かりながらこれからのことを考えた。
洲本に向かい友人の家に泊まることは決まったが、その後を考えるのがどうにも億劫だった。少なくともまだ家には帰る気がしない。
洲本は大きな町だから、おそらくはどこへでも行ける。島のどこへもバスぐらいは出ているだろうし、その気になれば四国に渡ることもできる。
とりあえず、まだ足が止まりそうにないなら行けるところまで行ってしまおうと思った。実際、今ここで確定することも面倒であるし、後の気分に任せたほうが後悔もなさそうなので、それ以上考えることをやめた。
流れるに任せることを決め込んだ僕は、風呂を出てすぐに来たバスに乗って洲本に向かった。
社員旅行
人生のうちで全く気の進まない旅行というのは二度だけで、どちらも同じ会社の社員旅行だった。
貴重な土日の休みが潰されるのを考えるだけでうんざりしたしそもそも、会社自体を僕は嫌っていた。
低賃金長時間の重労働な上、古臭い昭和の社会悪を凝縮したような職場だったのだが、不景気で悲惨なほど金がなかったので仕方なく勤めていた。
社員旅行は毎年春の終わりに行われていた。
一度目の行き先は宮崎だった思う。
思うというのは、入社直後だったこともあり本当にあまり覚えていないのだ。
大抵の観光地は以前バイクで周ったことがあったので、目新しいことはなかった。
高千穂峡に行ったことと、貸切バスで隣になった副社長がなかなかの好々爺だったこと、移動中僕がほとんど寝ていても文句ひとつ言わなかったことだけを覚えている。
二度目は高知県周辺だった。こちらは断片的だが記憶が残っている。
社員旅行は何故かいつも課長の小男が仕切っていた。
本人は毎年大変だと言っていたが、率先してやっているのを見ると名誉職のようなものだったのかも知れないし、太鼓持ちのきらいがあったので社長へのゴマスリも兼ねていたのだろう。
高知までは貸切の観光バスで向かった。小さな会社だったので、支社の人間を合わせても1台で移動ができた。
バスは後部の三分の一の座席がコの字形に設置されたサロンバスになっていて、小男の挨拶もそこそこに早速宴会が始まった。僕は酒は好きだが、宴会は面倒なのでなるべく避けていた。
なので僕は通常座席の方に陣取っていたが、宴会が始まってしばらくすると上司がやってきて「参加するのが一応礼儀だから、お前もちょっと付き合え」と忠告しに来た。
僕はそれまでの一年間をなるべく気の利かない愚鈍な人間を演じることで、余計な付き合いや残業から身を守ってきた。
そうするうちに、最低限参加が必要な場面だけは上司がなんとなく伝えに来るという妙な人間関係が出来上がっていて、そういう時だけは僕も仕方なく付き合いに加わっていたのだった。
付き合うと言っても近くの人間と適当に話して飲み食いするだけだったので、お酌をすることもされることも、今持って礼儀がわからないでいる。
いくつか寺社仏閣に寄った後、高知市内のホテルに到着した。
名前は覚えていないが、市電通り沿いで高知城から程近かったことは覚えている。
ホテルに着くとまた宴会が始まり、品のない宴会芸などをさせられた。
料理は大皿に刺身、揚げ物、焼き物といった多種多様な料理が盛られていて、いかにも四国の田舎然とした感じだった。
接待に来た仲居によると高知には「おきゃく」という宴会文化があり、この大皿料理も特徴のひとつらしい。
大皿と一緒に妙な盃と賽子も提供された。盃はそれぞれ天狗、おかめ、ひょっとこを模しており、賽子は駒の形をした六面賽子で、それぞれに盃の絵が2つずつ書いてあった。
どれにも一度酒を注がれたら飲み干さない限りはこぼしてしまうように細工が施されており、六面賽子をふって出た目の盃で飲むというお座敷遊びの道具らしい。
どうやらいつの時代にも、酒を飲ませようとする人間は数の多寡はあれど存在したようだ。僕の居た卓でも回し飲みが始まったが、三周ぐらいで飽きてくれたのが幸いだった。
カラオケラウンジで二次会もやったが、唯一覚えているのは嬢の白い二の腕に煙草をきつく押し付けた「根性焼き」の跡がいくつも残っているのを見つけて、後ろ暗い気持ちになったことだけだった。
僕は酒をしこたま飲むとアルコールの副作用で眠りが浅くなり、必ずと言っていいほど早起きをする。
その日も同僚上司が寝静まる中早起きをしてしまったので、一人でそぞろ歩きをすることにした。その時まで全く自由な時間がなかったので、とても爽やかな気持ちだった。
高知城の方向に行くと朝市が立っていて、まだ6時だというのに大変な賑わいだった。
市には海産の乾物や漬物などが並ぶほか、刃物が多く見られた。後から知ったことだが、土佐は古くから刃物作りが盛んだったらしく、今では伝統工芸に指定されているらしい。
鋼板を撃ち抜いて整形したらしいクジラを模したナイフ見つけて、2,000円と安かっため、マッコウ鯨とミンク鯨のものを一つずつ買った。
可愛らしい見た目とは裏腹に結構しっかり刃がついていて、十年以上経過した現在も時々使っている。
朝食の前に宿に戻ったので、僕の外出にはほとんど誰も気が付かなかった。
朝食を済まして宿を出ると貸切バスは桂浜に着き、そこでしばし自由散策の時間があった。
この桂浜も、僕は以前にバイク旅行で来たことがあったので、大して見て回るものがなかった。
ただ、やはり海は美しく爽やかで、黒い砂つぶが目立つ砂は踏み心地が良く、僕はひたすら波打ち際を歩いて時間を潰した。
この近くの浜辺で野宿をしたことがあるが、その浜は砂利浜だった。桂浜の方が湾奥になっているので、粒子の軽い砂だけが集まってくるのだろう。
時間めいいっぱいまで砂浜で遊んで集合場所に戻ると、他の会社の連中が集合写真ちょうど撮り終えたのが見えた。
どうやら僕が周囲に見当たらないので、僕抜きでさっさと済ましてしまったらしい。いてもいなくとも同じということだったのかも知れない。
僕は寂しいような、すがすがしいような砂色の乾燥を感じた。
海沿いの国道に鰹の藁焼きを体験させてくれるあり、そこで昼食を取るのが旅行の最後の行程だった。
藁焼きは自分で焼いたこともあり実に美味しかった。塩をつけて食べることを勧められたが、僕はやはり土佐酢に生姜の方が良いと思った。
高知では近年鰹の取れ高が芳しくないらしく、今食べたものも静岡で獲れたものということだった。
帰りの車内は流石に皆疲れが見え、ほぼ全員眠りこけていたし僕もたっぷりと眠ることができた。
会社に着くとそのまま解散になり、それぞれ疲労の色を滲ませつつ散り散りと帰路について行った。こんな体力気力の浪費を毎年欠かさずやっている意味が全く理解できなかった。
翌日の出勤を思うと暗澹とした気持ちになり背中を丸めたが、朝市で買ったクジラのナイフと桂浜で感じたすがすがしさを思い出すと、心が慰められた。
その二つを思い出すことで、この社員旅行にようやくの意味を見出すことができた。
そして、高知にはまた自由な時間をたっぷりとって訪れようとも思った。
その夏に僕はこの会社を辞め、これ以降勤め先で旅行に行くようなことはなかった。
もう二度と経験することがないという意味では、貴重な体験だったのかも知れない。
Wifi、SNS、スマホ、バックパッカーとネットワークの話
学生時代からあらゆることを途中やめ、中途半端、放り投げし続けている僕の人生の中で、唯一ずっと続けているのが旅行、特にバックパッカーのような身軽な旅行だ。
僕たちの世代は面白い時期に20代を過ごしていて、ちょうど18歳になった2007年にiPhoneの初代機が発売されているし、Wifiが本格的普及し始めたのもこの頃だ。
またSNSの流行も僕たちが高校2年生ぐらいの頃から始まっていた。
ちょうどネットワーク技術の時流が今に直接つながっていく過渡期に、僕たちは青春時代を過ごしていた。
もちろん、そんなことに当時は全く気付く術もなかったんだけど。
そんな中で始めた旅行という趣味も、ネットワーク技術の進歩とともにその姿を大きく変えていった。
社会に出てからも宿業という立場で旅行と関わってきた立場だから断言できるが、今の旅行はこの過渡期以前の旅行とは全く違う。
技術の進歩は旅行の進め方から人とのコミュニケーションまで、様々なものを変えてしまった。
良い悪いではなく、ただそうなった。
そうなってしまった以上、変化は不可逆でそれ以前には戻れない。
ただそれだけの話。
僕はただそうなっていくのを、旅行を通して感じ、見続けてきた。
大学に入学した2008年の春休み、僕は初めて海外に一人で出かけた。
行き先はタイ、バンコク。一週間の短期旅行だった。
当時の日本はまだまだ技術先進国で、情報機器も周辺諸国に比べて格段に良いものを使っていた。
それでも、携帯電話はまだ二つ折りのいわゆる「ガラケー」で、電話やメール、パケット通信でのインターネットが主な使い道だった。
インターネットもやっと定額制になった頃で、通信量も速度もパソコンに比べたら話にならないレベルだった。
mixiというSNSが流行しており、大学生はだいたいアカウントを持っていた。
旅行中は、一切インターネットを使わなかった。
いや、使えなかったという方が正しい。
携帯電話は海外では全く使い物にならず、インターネットは宿が持っているパソコンやインターネットカフェで、安くないお金を払ってするのが一般的だった。
一週間の旅でそんなことをする時間も、目的もなかったのだ。
OTAサイト(booking.comみたいなの)はあるにはあったが、中級以上のホテルが多くレスポンスも遅いので、バックパッカーの宿探しはもっぱら現地到着してから歩いて聞き回るのが主流だった。
今考えると全く非効率極まりないのだが、実際ほとんどの場合部屋はそれで見つかったし、なんの問題もなかった。大変のんびりした時代だったと思う。
宿で色々な国の人と出会い、一緒に飲んだり観光したりしたが、どんなに仲良くなった人とも帰国後に関係を維持するのは難しかった。
当時はメールアドレスの交換がコンタクトを取る最短経路だったが、eメールというのはとても能動的なコミュニケーションツールで、関係を維持するにはお互いが相互に意思を持って会話を続けなければ、どこかで糸が切れてしまうのだ。
また、お互い手元にデバイスがなければ紙にアドレスを書いて渡すのだが、それを無くしたり捨てたりするというリスクも往々にあった。
旅行での人間関係が途切れなくなったのは、Facebookが台頭してきてからだった。
この翌年の2009年春、バックパック旅行に取り憑かれた僕は1ヶ月のヨーロッパ旅行を敢行した。
基本的には前回のタイ旅行と変わらないクラシックなバックパック旅行だった。
ただやはり技術の進みつつあった欧州で、旅行が変化していく兆候を感じた。
この時、バレンシアの火祭りに参加して連日連夜大騒ぎを繰り返していたのだが、ある日同宿の日本人女性にFacebookの存在を教えてもらった。
世界版のmixiみたいなもので、最近の若い人はみんなやっていると言っていたので、早速宿のパソコンで登録した。
最初は大して更新する予定もないのに意味があるのかと思っていたが、その凄さを知ったのは帰国してずいぶん経ってからだった。
関係が途切れないのだ。
とりあえず友達として登録しておけば、取ろうと思えば連絡を取りあうことができるし、ニュースフィードに上がってくる相手の近況や大まかなライフイベントがわかるので、受動的ながらコミュニケーションを取る事ができる。
ごく簡単にいうと、楽なのだ。
実際、Facebookを教えてくれた女性やこのとき遊んでいたメンバーとは今も連絡を取る事ができるし、何人かはその後再開も果たしている。
SNSが旅のコミュニケーションを爆発的に簡単に、効率的にしたと言っていいだろう。
また、この旅行は長期にわたっていたので、要所要所パソコンを借りて家族にメールで無事を知らせていた。
ある時、同宿のドイツ人にラップトップを借りたときに、ケーブルがつながっていないことに気づいた。
どうやってインターネットに接続しているのかと聞くと、宿に金を払ってWifiに接続していると言っていた。
恥ずかしいながら、技術に疎い僕がWifiというものを知ったのはこの時で、本当に驚いた。
日本ではまだ高級ホテルでさえWifi整備ができていない頃だったが、メールする程度には問題ない速度の無線LAN通信を、スペインの第三都市のバックパッカー宿が提供していたのだ。
そう考えると、この頃日本の情報分野の遅れはすでに始まっていたのかも知れない。
(日本でこのレベルの宿にWifiが普及し始めたのは2012年頃だった)
2年後の2011年冬、僕は卒業旅行として東南アジアを1ヶ月半ほどかけて周遊した。
この頃になると、カンボジアやラオスのバックパッカー宿でもWifiを整備し始めていた。
インターネットも手軽になり、宿でのPCの無料貸し出しは当たり前になっていた。
数年前まで電気も来ていなかったというメコン川に浮かぶ島でさえ、インターネットカフェがある程だった。(回線はめちゃくちゃ遅かったけど)
この時目立ったのはスマートフォンだ。
ちょうどiPhone3ぐらいの時だったと思うが、手のひらに乗るほどの機械でスムーズにインターネットをする姿はなかなか衝撃的だった。
iPhoneを持っていた女の子は、夜ベッドでゴロゴロしながら次の宿を決めたりできるから楽だと話していた。
それはその後、バックパック旅行における宿探しの主流になる姿だった。
4年後の2015年春、僕は再度バンコクを訪れる機会があった。
すでにWifiやスマホは普及しきっており、若者のトレンドだったFacebookは後発のinstagramに移りつつあった。
社会人になっていて旅行期間が短かったことや、彼女連れだったこともあるが、僕はその時の全ての宿をOTAサイトから予約していた。
もはや宿は、インターネットから、事前に、なるべく安い値段を狙って予約するのが当たり前になっていた。
むしろ、OTAサイトにない宿など存在しないに等しいのだ。
バンコクの景色も一変していた。
バックパッカーの聖地、カオサン通りに林立していたインターネットカフェが1つ残らず消え去っていた。
この間の4年でインターネットは、パソコンでお金を払ってするものから、スマホで無料でベッドでゴロゴロしながらするものに変わったていたのだった。
たったの7年で、バンコクの街からそこに集まるバックパッカーの生活まで、最初に来た時とは全く様変わりしていた。
本当に一瞬のうちに、色々な事が変わっていったと思う。全く便利になった
肩に食い込む重い荷物を背負っての宿探しなんて馬鹿げた真似する必要ないし、スマホを取り出せばインターネットはおろか、道案内や情報収集までなんでも瞬時にできる。
家族にだってキューバの友人だって、いつでもどこでも連絡できる。
バックパック旅行は以前に比べて安心、安全かつ無駄なく、スムーズに行えるようになった。
その分みんなインターネットに接続される時間がずいぶん長くなったように思えるが、それは何も旅行に限ったことではない。
最初に述べたように良いも悪いもなく、そうなった。ただそれだけなのだ。
僕はこれからも、時代やテクノロジーの影響で旅行が変化するのをただただ翻弄されていくだけだろう。
ただ、それがどんな形になろうと、否定したり拒絶せずに受け入れ、楽しんでいきたいとおもう。
旅行する立場でも、旅行者を受け入れる立場としても。
このパンデミックが治まったあと、多分旅行にも影響や変化が訪れるだろう。
正直少し煩わしいけど、楽しみでもあるのだ。