下京区コンプトン

下京区コンプトンに住んでいました。

宿

宿の値崩れがすごい。

相部屋であれば2,000円を割ることも珍しくなくなってきた。

それも繁華街の徒歩圏内である。

 

もはや終電を逃してタクシーで帰るよりも泊まったほうが安い。

 

何より、その宿業界に身を置く者としては、

ケツに氷柱を突っ込まれるレベルで見が凍る危機感を感じている。

決闘

雨の休みの徒然に、くだらないB級チャンバラ映画を見ていた。

人がバッサバッサと切られていくようなやつだ。

ストーリーも単純な勧善懲悪モノで、頭を使いたくないときには調度良い代物だった。

 

子供の頃からあの手の映画の「殺陣」には疑問を抱いていた。

色々とツッコミどころは満載だが、特に切られ方や死に方にあまりにリアリティがない。

もちろん、リアリティ出しすぎると放送できなくなるのもわかっているけど。

 

いつだったか父に決闘の話を聞いたことがある。

武士が野原で殺し合うタイプのアレだ。

いわゆる真剣勝負と言うやつである。

 

父の祖父が幼少の頃に叔父にきいたとのことなので、おそらく幕末の話だ。

そこまでに及ぶ委細はよくわからないが、2人の男が切り合いをして、決着がつくまでを見届けたそうだ。

 

実際の真剣勝負というのは、チャンバラのように激しく切り合ったりはしないらしい。

双方が睨み合う形が長く続き、どちらかが踏み込んで少し刀を合わせ、また離れてにらみ合い、を何度も繰り返すらしい。

万事この調子なので、当事者には命の取り合いでも傍から見ているには退屈なものだったらしい。

 

2時間ほど決闘をし続けた結果、片方が精神力と体力の限界を迎えたところを、相手が討ち取ったらしい。

結局は剣術や技ではなく、気力勝負だったそうだ。

 

そのころはちょっと期待はずれのガッカリ話だったが、今思うとなかなかリアリティに溢れ、妙味があると思う。

 

 

Don’t trust over thirty

古くからロックの世界にはDon’t trust over thirty (30過ぎたやつのことを信じるな)という言葉がある。

 

今自分が信じてもらえない側に足を突っ込んで思うことは、この言葉は大変に時代遅れな言葉だ。

 

この言葉が10代半ばから20代前半に呼び掛けられたものだと仮定すると、逆に10歳程度年上までは信じてもいい範囲に入ってくる。

つまり同じカルチャーを共有しうる範囲だということだ。

 

しかし、今はどうだろうか?

僕は10歳年上の人間と同じ文化を共有し合えるとは思えないし、10歳年下の人間に無条件に理解してもらえるとも思わない。

 

なぜなら、時代の流れる速度がかつてとは比べものにならないほど早くなっているからだ。

ケータイひとつとっても、僕が高校の頃はガラケーを従量制で使っていたが、今の高校生はスマホを使い放題使っている。

情報量は雲泥の差がある。

 

カルチャーはテクノロジーを前提に構築されるので、おそらく今の高校生は僕たちとは全く違ったカルチャーを育んでいるんだと思う。

多分、想像もつかないぐらい細部に渡って違う。

 

以上のことを鑑みると、僕らがカルチャーを共有できるのは前後3歳差ぐらいかなと思う。

それ以上はおそらく、どこかに無条件に分かり合えない小さなカルチャーショックが隠されている。

 

でもそれでも構わない。

僕たちは人間なので話し合えるし、理解もしあえる。

共通のルールや条件も作れるし、なんとかやっていける。

 

一番悲しいことは、相手が自分のカルチャーを当然わかっていると思い込んでその意見を押し付けたり、わかってもらえないことに怒ったりすることだ。

そうしてお互いを断絶し、憎み合うことが一番非生産的でつまらないことだと思う。

 

今、新しい世代に無条件に信じてもらえない立場になって思うことは、話し合い、理解に努めて、おたがい楽しくやっていく道を模索していこうということである。

 

気持ちさえあれば、多分なんとでもなるだろうけど。

 

安酒

ストロングゼロが巷で話題になっている。

明らかに酔い方がおかしく、脳や身体へのダメージが大きいのではないかという話だ。

 

基本的に安酒の類は必ず悪酔いする。

明らかにアルコールの質が粗悪なのだ。

しかも安いから量を飲むので、余計に悲惨を巻き起こしやすい。

 

散々色んな酒で痛い目に遭っている経験から、僕は安酒を避けている。

安酒の定義は以下の2つだ。

 

・ビールより安い缶の酒

・瓶ではないものに詰められている酒

 

これはどちらかというと、最悪の物を避けるための最低基準でしかない。

この基準を満たすものでも粗悪なものは入ってくるので、買う際の吟味が必要である。

 

そもそも酒は嗜好品なので、金がないなら飲まなければいい話だ。

毎日ビールが飲めないなら三日に一回にすればいいし、決して毎日発泡酒を飲むようになってはいけない。

 

酒がなければ翌日やっていられないような低賃金ハードワークも経験したが、それで毎日飲んでいたら破滅していたし、その世界からの脱出も叶わなかっただろう。

安酒は確実に人の気力や思考力を奪っていく。

 

そんなものがコンビニに山のように並んでいるのである。

自分がだらしない酒飲みとわかっているからこそ、酒に対しては一定の規律とプライドを持って接していきたいと思う。

 

 

動機

思えば動機がくだらない事が実に多い。

 

10代後半の頃に好きだった歳上の女の人にどうにか取り入るためにレゲエを聴き始めた。

今では最もよく聞くジャンルの一つだ。

 

同じく、文化度高めの同級生の気を引こうと、たまたまやってたルノワール展に誘って出かけたことがある。

今ではその同級生より全然印象派の方が好きである。

 

山に登り始めたのもたまたま友達に誘われたからだし、このブログの原点もmixi時代の暇つぶしの延長だ。

 

多分、動機やきっかけなんて割とどうだっていいのだろう。

不純だろうと、気まぐれに選んだ結果だろうと、その後の相性や取り組み方によってどうとでもなる。

 

問題は動機やきっかけを掴めないほどに受動的になってしまうことだ。

そうなれば何も始まらないし、流されるままになってしまう。

 

というわけでこれからも余計なことやいらんことたくさんします。

よろしくお願い致します。

 

水を飲んで寝る

バーニー・ウェイラーは幼い頃、キングストンのスラム街トレンチタウンに住んでいたという。

家は極貧で、夕食に食べ物が何もない日もしばしば。

そういう時は「水を飲んで寝ろ」とだけ言われたそうだ。

 

この水を飲んで寝るという方法、当座の食欲を抑えるには大変有効だということが最近わかった。

ここのところ深夜の食欲が抑えられず、買い置きの食料を切り崩していた。

特に体重の増減に頓着がないので、夜中に食うこと自体に罪悪感はない。

しかし、食わなきゃ眠れないし、軽く食っても胃が動いて寝つきが悪い。

これが気に入らないのだ。

 

そこで、ウェイラー一家に古より伝わる水を飲んで寝るを実践してみた。

実際は湯冷ましぐらいの温度のお湯をガブガブ飲み、胃が満ちた感じがしたら寝る。

 

胃が満ちているので眠れないこともなく、朝も良い気分で起きられる。

悪くない。

 

そんなこんなで今日もバーニーに感謝しながらお湯をがぶ飲みし、床につくのである。